三沢抄(二七五)
三沢抄(二七五)
みさわしょう
一篇。
建治四年(一二七八)二月二三日撰述。
聖人が身延から駿河の三沢氏に送られた書状。
真蹟影写本京都妙覚寺蔵。
日興写本重須本門寺蔵。
本抄は三沢氏が種々の供養物に添えて法門のことを尋ねてきたことに対する返書である。
三沢氏の伝記は詳かでないが、氏の信仰は『録内扶老』が指摘しているように、四条氏の如き不退転の信仰を貫き通したというよりも、摂受的消極的だったように見られる。
本抄は、まず仏法を学ぶことの困難さを教示して、釈尊の大難から釈尊滅後の大難に及び、聖人の値難忍受の体験を披瀝して、法華経法師品の仏の未来記のとおり大難を受けたのは日蓮聖人唯一人であると明言し、末法の法華経の行者としての自己を開顕し、不惜身命の覚悟をもって法華経修行の不退転を説示している。
次に身延入山の動機を「不審なきゆへに此山林には栖候なり」と述べている。
そして本抄の眼目とも見るべき聖人自身の化導に佐前・佐後の相異があることを教示し「法門の事はさどの国へながされ候し已前の法門は、ただ仏の爾前の経とをぼしめせ」と述べられている。
次いで内房尼の来訪を謝絶したのは、氏神への参詣のついでに身延へ詣でたことが神仏の秩序を乱したからであると、信仰的節義の問題が語られ、最後に真言が亡国の悪法であることが述べられている。
本抄の特色は佐前佐後判を表明されていることにある。
即ち『開目抄』において「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて」(定五九〇頁)と自己規定された聖人は「さどの国より弟子どもに内々申す法門」として『開目抄』『観心本尊抄』を撰述され、大曼荼羅を図顕されたのである。
そして前引の如く聖人自ら法門を佐前・佐後に区別されたのである。
日蓮教学において佐渡流罪以前以後に法門の相異、教化の浅深等を論じるのは右の一文を基準とする。
《『遺文辞典』歴史篇「三沢抄」の項、『日蓮辞典』「三沢抄」の項》