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山内一豊

やまうちかずとよ #1900

山内一豊

やまうちかずとよ

(一五四五または四六-一六〇五) 信長・秀吉・康に仕え、戦という動乱の時代に身を処して生き抜き、かずかずの武勲と忠勤によって戦大名の一人となった。
一豊の立身出世の陰には、その妻の献身内助の功が伝えられている。
山内は代々法華宗信者であったと伝えられ、一豊自身もその足跡を残している。
山内氏の遠祖は藤原秀郷の後裔で三河(愛知県)住人・資清に発し、資清は主馬頭に任ぜられて首藤氏と改姓し、その四代後の俊通は相模(神奈川県)鎌倉郡山内庄を領有し、このから山内氏を称した。
その後、本拠地の山内庄からは転々として俊の時代、文永年間(一二六四-七五)に丹羽三宮に居城して、一豊の祖父久豊に至った。
この久豊のに丹羽から尾張に移り、丸内三葉柏の山内々紋が定まったという。
一豊の父・盛豊は尾張岩倉城主織田信安に仕えて老となり、一宮市木曽川町の黒田城を預けられ、信安に従って信長との戦いに明け暮れていた。

 一豊は文一四年(一五四五)盛豊の第二子として尾張に誕生、生地は黒田とも岩倉ともいわれ、幼名は辰之助である。
辰之助一三歳の弘治三年(一五五七)七月一二日、父盛豊は黒田城で夜討ちを受け、一豊の兄・十郎は応戦して討ち死に、盛豊もこのに死亡した(五八歳没)とも、永禄二年(一五五九)の岩倉城落城のに戦死した(六〇歳没)ともいわれる。
盛豊の死骸は黒田の法蓮寺(身延末)に葬られ、現在同寺にはそのが十郎のと並んでいる。
黒田城が陥ちた、一豊と弟妹たちは母に連れられて岩倉城に逃れた。
一豊には亡兄十郎のほかに姉に通(安藤郷氏に嫁し、長男は一豊の土地入後に宿老の領主となって山内一門を形成)、弟に吉助(のちの康豊で、一豊を助けて治世の功をあげた)、妹に米(長井利直のちに松田政行の妻)と合(野中兼山の母)があり、岩倉城落城後は尾張苅安城主浅井政高や美濃松倉城主前野長康のもとに身を寄せた。
永禄二年、辰之助(一五歳)は元服して伊(猪)右衛門一豊と名乗る。
同年、美濃牧村城主政倫のもとに寄遇し、次いで近江勢多城主山岡景隆に近習として仕えた。
さて一豊の母は尾張春日井郡羽黒城主梶原氏の女と伝えられ、永禄末年頃には近江宇賀野の長野に身を寄せ、一豊もこの地で養育をうけ文武両道を学んだともいわれる。
宇賀野滞在の頃、一豊の母にその温順利発な資質を見込まれて一豊の妻となったのが、のちの法号見院(弘治三年=一五五七=に近江で生れ、通説では浅井氏の臣・若狭喜助友興の女)であった。
一豊は永禄一〇年頃から元亀(一五七〇)に至るに牧村政倫の推挙で信長に仕えるようになり、結婚は元亀から正のと推定される。
やがて秀吉摩下に配せられ、正元年(一五七三)八月の朝倉討伐戦に奮戦して近江唐四〇〇石を分与されて待望の領主となり、出世への第一歩を踏み出した。
信長馬揃えの際、一豊の妻が非常用の持参金を鏡管から取出し、一豊は名馬を購入できて信長に認められるという有名な逸話は朝倉攻めの前との説もある。
正三年、一豊は要法寺を菩提所とした。
要法寺来歴によれば同寺は長禄二年(一四五八)尾張国の僧某が同国に草創し、文亀(一五〇一)の頃、日仁が長浜に移して身延末としたという。
同寺が山内菩提所となったのは第四世養光日遠のである。

 以後の一豊の転戦活躍ぶりを概記すると、正三年長篠の合戦、次いで信長の安土築城に参加、同五年播磨出陣して上月城攻撃、同年秀吉に従って播州に移り有年(赤穂市)の地七〇〇石を領し、次いで二〇〇〇石の知行を得る。
翌六年三木城攻撃、同九年鳥取城包囲戦に参加、淡路備中に出陣して毛利方を和させた。
このに本能寺の変が起り、信長は光秀に殺される(一五八二)。
一豊は戦功によって次第に登用され、蜂須賀彦左衛門らと共に黄母衣(きほろ)の武者として秀吉下の有カメンバーとなっていた。
同一〇年、山崎合戦に従軍し、播磨南郡で五〇〇石の加増、知行三二〇〇石を有し、同十一年に亀山城攻略戦・賤ケ岳参陣で柴田勝家軍を追撃し河内交野郡禁野で三六一石二斗の加増、翌一二年ついに播州から近江長浜五〇〇〇石の転封をうけた。
翌一三年若狭西懸郡で一万九八七〇石余の地を与えられ高浜に居城、三ヵ月後には長浜に帰り江北二万石と一万石の代官地を支配することとなった(四一歳)。
同年、秀吉は関白となり、一豊は秀次の老臣・補佐役を命じられた。
二万石大名としての長浜入城に伴い、一豊の弟妹親戚が集まり、彼らはのちに山内の羽翼となって行く。
ところが、三ヵ月後の長浜大地震(正一三)で子の与弥(よね)姫を失った一豊夫妻は、美濃瑞竜寺の南化和尚について参禅を始めたという。
翌一四年七月一七日、生母が没し(法号は法性院縁月妙因大姉)、山内家菩提所である要法寺に葬り、のち同寺が遠江掛川から土佐に移って位牌を安置したと伝える。

 正一五年、秀吉の京都における聚楽第築造に際し、一豊はその普請役を務め、秀吉は九州征伐後九月一三日にここに移った。
翌一六年四月一四日の後陽成皇の聚楽第行幸に際し、一豊は近江中納言秀次卿随身・諸大名の一人として供奉の列に加わった。
翌一七年五月の北条氏討伐令により、一豊は弟康豊と共に進軍、小田原の役の軍功で同年七月一三日、遠江掛川五万石を移封された(四六歳)。
秀吉の下統一が成り掛川に入部してからの一豊は、領経営の問題に取り組み、秀吉の兵農分離政策に従って掛川の地に本格的な近世城郭と城下町を造った。
また臣の知行割りと共に築城に伴って社寺への寺領などの寄付を行い、天正一九年要法寺に佐野郡石野村で寺領一〇〇石を寄進し、長浜から一豊に従った日遠は要法寺を建立している。
秀吉の朝鮮遠征には出兵せず、大井川河川工や伏見築城など内の公務に多忙であった。
文禄四年(一五九五)七月、秀次は秀吉に高野山に追われて切腹、一豊は遠江の秀次の闕所地八○○○石を加増された。
慶長三年(一五九八)秀吉死去、翌四年の秀吉の葬儀参列、豊神社に参拝した。
やがて関ケ原の合戦となり、康の代がくる。
一豊が康傘下として各戦に従いその信任を得るに至った、名高い「笠の緒文」の逸話がある。
ち、慶長五年会津征伐の途次の小山の陣において、一豊は妻からの密書(笠の緒文)で内意を汲み、妻からの別便と大坂方からの勧誘状の入った文箱を封のまま、康に差し出した。
一豊は、この妻の慎重で明敏な計らいによってその忠誠心を康に披瀝して心を捕え、のちに康をして「山内対馬守の忠節は木の本」といわしめた。
同年八月岐阜城攻略、九月一五日の関ケ原合戦後、一豊は土佐一・二四万石を与えられた。
一豊の土佐浦戸城入城に先立ち、浦戸では旧主長曽我部元親の臣中の一領具足(田地を二-三町歩ほどもった在郷給人)の人々は一揆を起して城引渡しに抵抗した。
一揆鎮圧後、慶長六年正月八日、一豊は浦戸入城、内の支配体制を整え、新しい政策を推進して領を経営し、近世封建体制を確立した。
浦戸入城後半年で高知城築城開始、同八年入城式、この年に一豊は従四位下に叙せられ土佐守に任じられた。
また同年一〇月、土佐神社で法華千部経の転読を行った。
掛川から供奉してきた要法寺日遠は慶長六年八月九日、浦戸で没したが、弟子日顕は第五世となって慶長八年に要法寺を建立、長岡郡野田村に田一三町歩を寄進された。
この、桂昌寺(細川守護代に頂妙寺末として開かれ、現在の妙寺)も田村に一〇石の寺領を寄せられている。
浦戸から移転してきた桂昌寺は高知で要法寺と相接し、配分して寺境をなしていた。
慶長一〇年(一六〇五)一豊の養子忠義(弟康豊の子)と康の養女阿姫との婚約、忠義は従五位下、対馬守となる。
同年九月一二日、一豊は六一歳で没し、法号を大通院殿心峯宗伝大居士という。
同十一月、忠義襲封、以後幕末の第一六代山内豊範に至るまで土佐山内藩政は継続される。
一豊の死の翌日、その妻は見院殿潙宗紹劉大姉の法号を受け、やがて剃髪して元和二年(一六一六)、一豊と同年の六一歳で没した。
《『日蓮団全史』上、山本大著『山内一豊』『日本の武将』七〇、『豊臣記』『続群』二〇上、『妙国寺文書』『宗全』二二巻、『国史大辞典』一四巻「山内一豊」の項
木治美)

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