妹尾義郎
妹尾義郎
せのおぎろう
(一八九〇-一九六一)
明治二三年一月、広島県に生れ、明治四一年第一高等学校に入ったが肺結核にかかり退学、この頃から日蓮主義、法華経信仰に惹かれ始めた。
大正五年(一九一六)、数名の同志と日蓮主義鑽仰会を結成、日蓮主義の研究に意欲を燃やしていたが、大正七年に上京して田中智学の門を叩きはしたものの、智学の態度に失望、翌年、本多日生を尋ねてこれに師事、同年一一月五日、大日本日蓮主義青年団を組織、いらい新興仏教青年同盟結成まで、日生門下における青年組織の指導者として目ざましい活動をした。
大正九年には、青年団の機関誌『若人』を創刊、全国的に本多流日蓮主義の宣布に努力、東奔西走の日が続く。
この間、妹尾に共鳴し『若人』の読者として、この運動に直接間接に関わった日蓮宗内の青年僧は少なくない。
ところで釈迦牟尼仏を中心とした法華経による仏教統一論を主張した本多日生に魅せられた理由について、妹尾は後年次のように語っている。
「日生師の平民的な態度にまず好感がもたれたし、その日蓮主義観も偏狭な法華経一辺倒でなく、一切経の開顕統一といったおおらかな学風だったのもうれしく、ここで日生師に懇願して入門」(『四十三年の仏教体験』)と。
こうした活動を続けている頃に起ったのが、清水龍山と本多日生との本尊論争である。
この論争が後に本多の立場を擁護する妹尾と清水との論争に発展する訳だが、これが妹尾には様々な影響を与えている。
この間の事情について、妹尾はその著『本尊論批判』という小冊子にまとめている。
これほど本多日生に傾倒していた妹尾であったが「今日蓮」などと騒がれ、当時山梨その他で頻発していた小作争議の調停役を引受けるうち、小作農民の余りの貧しさに同情したり、富農の非人間性に義憤を抱いたりし始めるようになる。
特に昭和三年(一九二八)三月、共産党員が大量に検挙された弾圧事件が起きたことは、妹尾に社会問題についての関心を高めさせたといえる。
その気持を記したのが「共産党事件に直面して仁王護国経の一節を読む」という『若人』誌上の一文である。
「飜って現下の一門を見よ、かの唾棄すべき政治家等の頣使にまかせて、たゞ思想国難共産党撲滅等とのみ太鼓をたたき廻って、その依って来る根本に向った諫暁をはげまざるは何のざまだ。かかる時こそ、蒙古来に善処したるわが先覚のごとく、国家の不義を、徹底的に折伏すべき好個の機会ではないのか。かくしてこそ、一切の現象を総括する開顕統一の聖教にふさわしき態度ではないのか」というのがそれである。
この時点を境として、妹尾は本多流の国家主義的日蓮主義を清算する芽を見せ始めてくる。
とはいえ本多の仏教統一、本仏顕本思想と既成教団への厳しい批判精神は、妹尾に受継がれている。
昭和六年四月、それまでの大日本日蓮主義青年団を発展的に解消して結成された新興仏教青年同盟の綱領を一読しても、そのことは理解されよう。
その綱領とは、
(一)われらは、人類の有する最高人格、釈迦牟尼仏を鑽仰し、同胞信愛の教訓に則って仏国土建設の実現を期す。
(二)われらは、全既成宗団は仏教精神を冒涜したる残骸的存在なりと認め、これを排撃して仏教の新時代的宣揚を期す。
(三)われらは、現資本主義経済組織は、仏教精神に背反して大衆生活の福利を阻害するものと認め、これを改革して当来社会の実現を期す。
との三綱目がそれである。
この第三の綱領に示された資本主義経済組織の改革という目標が運動化されたことから、天皇制否定、私有財産の否定、国体変革をめざす団体だとして、治安維持法違反に問われ、昭和一一年一二月、妹尾は検束、翌年には同仏青幹部の一斉検挙に遭遇、遂に組織は解散に追い込まれた。
終戦後、青天白日の身となった妹尾は、病をおして仏教革新運動(全国仏教革新連盟委員長)や日蓮宗革新同盟、平和運動に身を投じ、昭和三六年八月四日、松本市郊外で波乱の一生を閉じた。
《中濃教篤編『近代日蓮教団の思想家』、中濃教篤「妹尾義郎」『講座日蓮』四、『日本近代と日蓮主義』、稲垣真美『仏陀を背負いて街頭へ』、『妹尾義郎日記』七巻、妹尾義郎『社会変革途上の新興仏教』、小野文珖『昭和法華人列伝』、『国史大辞典』八巻「妹尾義郎」の項、西山茂『近現代の法華運動と在家教団』(春秋社『シリーズ日蓮』四)》