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十法界事(一六)

じっぽうかいじ #937

十法界事(一六)

じっぽうかいじ

一篇。 日蓮聖人著。
正元元年(一二五九)聖人三八歳の時、鎌倉での述作。
真蹟は現存しない。
本書は『十法界御書』『十法界抄』とも呼ばれる。
系年について弘安五年(境妙庵目録)、佐後撰述(浅井要麟)とする異説もあるが、『一代聖教大意』に「諸経の成仏を許し許さぬは聞ふべし、秘蔵の故に顕露に書さず」(定七一頁)といい、『守護国家論』に「常途の天台宗の学者は爾前に於て当分の得道を許せども、自義に於ては猶当分の得道を許さず。 然りと雖も此書に於ては其義を尽さず略して之を記す。 追て之を記すべし」(定一二五頁)とあるように、この二書に詳説されなかった爾前無得道論を説くための述作と見て、正元元年作とする。
本書は特定の対告者に宛てたものではなく聖人内証の用意のための述作である。
本書は四番の問答から成っているが、他の遺文とは異って、問者は日蓮聖人、答者は天台宗並びに他宗を兼ねている。 これは天台宗爾前諸経諸宗の得道を許すことを破折し、爾前無得道の義を顕示するための論法である。 そして十界互具の義について爾前・迹門・本門・観心の四重の興廃を論じて、一代仏教を本門寿量品の観心から見るときは、法華経本門開顕以前の爾前教並びに迹門の成仏論は成立しないと論断されるのである。
ち本書の大意は、法華経以前の小乗教や権大乗教において、二乗が見思の煩悩を断じて六道を出離したと説くが、十界互具を説き明かさないから真に六道を出離したとはいえず、従って爾前の諸経は未だ六道を出でない無得道の権法である。 また法華経迹門では十界互具一念三千の理が説かれたが、教主は始成正覚の仏であって、未だ仏の久遠実成が顕されないから真の成仏は説かれず、爾前に対すれば真実であっても本門に比すればなお未顕真実のである。 本門寿量品に至って初めて仏の久遠実成が開顕されたことによって、迹門の十界互具も真の仏因となり、本門の仏果を得ることが出来るのである。 そして「迹門爾前は若し本門顕れざれば六道を出でず、何ぞ九界を出でんや」(定一四四頁)と結論づけ、本門未顕の爾前・迹門は六道を出離することさえ出来ず、まして成仏など思いもよらぬことであると述ベ、一代仏教は法華経本門寿量品に帰着すべきことを示している。
なお一妙日導は、本書巻末の「但し妙法蓮華経皆是真実の文を以て」より「何ぞ九界を出でんや」に至る文は、迹門の未顕真実を会通して本迹二門ともに真実なる義を成ずるから、一鈔の旨帰はこれに限ると論じて、本迹一致を顕すのが本書の大要とすべきであると主張している。 また本書は日導を始め本妙日臨・優陀那日輝など近世末期の諸師に重要視され、本門観心を論ずるときにしばしば引用されている 《『遺文辞典』歴史篇「十法界」の項》

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