本門観心
本門観心
ほんもんかんじん
妙法五字七字。
文底観心。
『開目抄』に「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」(定五三九頁)、『観心本尊抄』に第五重の三段を説いて「一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名く」(定七一四頁)とある。
日蓮聖人教学において本門という場合、法華経後半一四品本門と聖人独自の立義である文底本門・観心本門の二種がある。
観心本門に対し一四品本門は文上本門と称する。
文上本門の正宗分である一品二半(従地涌出品後半・如来寿量品・分別功徳品前半)は寿量品を正意とし、寿量品の元意(内証の寿量品)は妙法五字である。
『開目抄』に文底本門・本因本果の法門を論じて、一念三千の成仏を説示し、『観心本尊抄』に「本門の肝心南無妙法蓮華経の五字」(定七一二頁)を論じて観心本門が現実的な救済を志向するものであることを明らかにされている。
本門の概念にこのような教格性・現実性をみるのは、五字に理の普遍性と人格の教導性を、七字に色読受難の法華経実践という宗教体験の社会性が認められるからである。
本門が教的概念の中にありつつこれを五字七字と称するのもこのゆえである。
このように聖人の本門義には一念三千・題目五字七字・本尊・戒壇等の重要な要素が有機的に関連しており、教としての理的範疇にとどまることなく、釈尊の意志・釈尊の人格・釈尊の行動を内含するものである。
『富木入道殿御返事』(定一五二二頁)に「大難又色まさる」とあるごとく、一念三千が大難と共にあるのは、本門が現実的な歴史社会にこそ自己を成就するためである。
このように本門が行為的であるのは、本門が観心に即するゆえんであるが、逆説すれば観心において本門は現成されるのである。
本門観心は教格的観心本門を行的にみたもので、教に即する観にほかならない。
従って、観心本門も本門観心も共にこれを「妙法五字七字」と表現しうる。
妙法五字七字の本門観心は本門の発動、本門の動勢、本門の行為的場面をいい、換言すれば釈尊の主体性を受持の行者がになう世界である。
妙法五字は単独に在るものではない。
常に釈尊と衆生との関わりの中に妙法五字七字として在り、これを釈尊の内証にみれば五字、受持者の信にみれば七字、両者の感応道交の自然譲与にみれば五字である。
このような〈五字―七字―五字〉の関係を「妙法五字七字」と称するのである。
これを釈尊の立場で論ずるのが五字の受持で、釈尊の因行果徳の受領を意味している。
このような日蓮聖人の五字七字の信行を本門観心と称するのである。