八幡諫暁の弁
八幡諫暁の弁
はちまんかんぎょうのべん
繰り弁の一つ。
文永八年(一二七一)九月一二日、日蓮聖人は竜口で首の座についた。
この法難を講座説教では文八と呼び、一三講話ある。
本弁はその中の一講話で、松葉谷で捕われた聖人が、刑場へ向う途中、鶴岡八幡宮に向って諫暁した内容をいう。
即ち、八幡大菩薩はまことの神か。
昔、和気清麿が道鏡のために首を刎ねられようとした時は、一丈の月と現われて清麿を守り、伝教大師が大隅の宮で法華経を講じた時は、紫の袈裟を布施として捧げたではないか。
今、日蓮は日本第一の法華経の行者である。
その上身にいささかの過失もない。
ただ日本国の人々が法華の正法を謗る罪によって、無間地獄に堕ちるのを助ける法門を弘めたまでである。
今、日蓮が死罪となった後で、梵天・帝釈・日月・四天等のとがめによって、蒙古が攻め寄せるならば、この国の守護神たる天照大神、正八幡宮とも安穏では居られまい。
その上、昔釈尊が法華経を説いた時、多宝如来をはじめ、十方の諸仏諸菩薩が雲集して、日と日、月と月、星と星、鏡と鏡とを並べたような晴れやかな会座で、釈尊から十方世界の無量の諸天、並びに天竺・漢土・日本等のあらゆる善神に向って、法華経の行者を守護すべき旨、誓を立てよといわれて、一同に「世尊の勅の如く、当に具に奉行すべし」と誓状をたてた一人ではないか。
して見れば日蓮がかく言うまでもなく、今こそ彼の誓状の宿願を果すべき時ではないか。
この期に及んで、その験しを現わさぬのは不可解である。
若し今夜日蓮が首切られて霊山浄土へ参るならば、まず第一に天照・八幡こそ、誓を果さぬ妄語の神であると、きっと釈尊へ申し上げるであろう。
それがつらいと思うならば、急いで御計らいをすべきである。
日蓮聖人の信念の強きことを、講談調に信者に語る弁をいう。