久昌寺(茨城県常陸大田市)
久昌寺(茨城県常陸大田市)
きゅうしょうじ
茨城県常陸大田市にあり、靖定山と号す。
徳川光圀が生母久昌院靖定夫人の菩提のため建立す。
久昌院は谷左馬之介藤原重則の女で、水戸藩初祖頼房の室。
この生母は養珠院と同じく熱心な法華信者であった。
当山開基とされる禅那院日忠(一六六〇年化)は、身延山一七世慈雲院日新の弟子となり飯高に学んだが、早くして師を喪い心性院日遠についた。
年を追って行業進み、養珠院に衣資を賜っている。
のち、京都頂妙寺主、中山法華経寺主を経て飯高檀林化主となっている。
この頃、寂静院日賢と親交があり、ために、日賢が不受不施の義により幕命で流刑のとき、日忠も嫌疑を受けることになる。
この時これにいたく同情し、水戸城下の向井町に一宇を創り、深大山禅那院経王寺としたのが久昌寺の前身であり、これをもって日忠が当山の開山とされている。
のち寛文元年(一六六一)には久昌院が逝してこの経王寺に埋葬されている。
延宝元年(一六七三)、久昌院の三回忌を迎えて、光圀は母の菩提のため一寺の建立を思いたち、常陽久慈郡稲木(常陸太田市稲木町)の山中に起工した。
五ヵ年を費して、仏堂・法堂・位牌堂・多宝塔・万丈・食堂・鐘楼・鼓楼・垂迹堂・山門・厨庫・浴室などからなる大伽藍を建て、経王寺をここへ移して、母の法諱に因んで靖定山久昌寺と称した。
同五年にはここで久昌院の十七回忌が修せされている。
この時の大導師は身延山三〇世寂遠院日通で、岩本實相寺知定院日進も導師として請せられている。
光圀は学徳優れた僧侶を養成することにも熱心で、天和三年(一六八三)、寺内に久昌寺檀林を設けて学僧訓育の道場とした。
その能化には、のち身延山三二世となった智寂院日省、中村檀林二六世深広院日視らを請じている。
更に元禄六年(一六九三)には、新たに地を選び本格的な檀林を造築し、三昧堂檀林と称した。
その講堂が完成したのは同八年である。
ここの初代化主は京都妙顕寺二〇世勝光院日耀である。
この代に学制が定められ、また光圀は一七ヵ条の律義を作成している。
久昌寺の運営に当って、光圀は僧の堕落は権門富貴に迎合して布施を貪ることにあるとして、寺の管理庶務の一切を主僧の手には触れさせず、深草元政の資皆如院日乗をもちいて摩訶衍庵という塔頭に住わせて、別に統理せしめた。
のち学僧の道場ができると、その教務もみさせている。
《影山堯雄『日蓮宗布教の研究』》