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曇鸞

どんらん #3263

曇鸞

どんらん

(四七六-五四二)
南北朝代の僧。
北魏承明元年から東魏興和四年の人。
雁門(山西省代州)または并州弌水(山西省太原)の出身という。
が五台山に近く一〇余歳にして登山し出家した。
諸経に精通し四論(『中論』『百論』『十二門論』『大智度論』)を究めたが『大集経』註釈中に病の身となる。
門の洞開するを見て病が治癒し、これより不老長寿を求めて道教を学んだが、菩提流支に『観無量寿経』を受けて、浄土に専心した。
魏王は尊称して神鸞と号して、并州大巖寺に住せしめた。
のち、汾州北山石壁玄中寺に移り東魏興和四年(五四二)五月、平遙山寺において六七歳をもって入寂した(『続高僧伝』)とも、北齊保五年(五五四)以降の入寂とも伝える。
世親の『浄土論』を注釈した『往生論註』二巻は、龍樹と世親の思想をまとめ、空思想によって浄土教を論理的に大成したもので、後世の浄土思想の展開を基礎づけたものであるといえる。
親鸞曇鸞の『讃阿弥陀仏偈』によって『浄土和讃』を著し、七高僧の第三に曇鸞を位置づけた。
日蓮聖人は『立正安国論』に「曇鸞法師は四論の講説を捨てて一向浄土に帰」(定二一七頁)すと、その行状を叙述されている。
曇鸞難行・易行の二道を立て、難行を捨てて易行に帰すことを説いた。
聖人はこれを『撰時抄』に「十住毘婆沙論と曇鸞法師の難行道」(定一〇〇六頁)と表現されている。
曇鸞の浄土思想は道綽・善導等の思想と共に、法然において聖道門・難行道・雑行は時機不相応であるとし、捨閉閣抛を主張するにいたる思想的基盤となった。
《『遺文辞典』歴史篇「曇鸞」の項、『岩波仏教辞典』「曇鸞」の項》

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