日出(一乗房)
日出(一乗房)
にっしゅつ
(一三八一-一四五九)
三島・鎌倉の両本覚寺の開山・行学院日朝の師範に当る。字を是生、出家して正信と名乗ったと伝えられ、一乗房と号す。
武蔵国の出身で天台宗下野国都賀郡稲葉談所に学び、その後仙波檀林の能化であったという。
なお日出の伝記に関しては諸説があって不明な点が多いが『身延山史』『日蓮教団全史』上、『行学院日朝』(室住一妙)等を参照しながら、明らかな部分のみを記せば次のとおりである。
日出は天台宗の能化であったが、身延山九世成就院日学の教化によって改衣し、身延門流の僧として弘通に専念することになる。
その改衣の時期は明らかでないが、鎌倉本覚寺所蔵の日出書写『開目抄』上の奥書には「応永廿三年六月廿九日、成道第六天、日出花押」とある。
このことから応永二三年(一四一六)三六歳のときには既に改衣したものと考えられる。
また室住一妙は「成道第六天」の文を、当宗入信から六年になると解釈され、応永一八年、日出三一歳と論ぜられている。
その後、応永二六年甲州正行寺開創の縁起があり、同二七年頃には伊豆の三島に逗留し、小浜の傍らの松林に草庵を結び、昼夜読経唱題し、応永二八年元旦には至心発願して、小浜の水辺において七日間の祈行を修したのである。その忍難弘通の願文は三島本覚寺に所蔵されている。
同年三月には甲州東八代郡(現・笛吹市)常徳寺の開創、一二月には同郡の薬師堂を荘厳山常在寺となし、三一年には三島本覚寺の開創を伝えている。
そして永享元年(一四二九)には伊豆の宇佐美に遊化し、幼少の日朝(鏡澄)との出会いがあったという。
その後、鎌倉にて弘通に専心し、永享八年閏五月晦日、日出は鎌倉妙隆寺日妙と共に、鎌倉塔ノ辻、天台宗宝戒寺心海との法論に及び心海を屈伏させた。
これを「永享問答」という。
そして六月二日に管領足利持氏に『永享問答記』を提出し、合わせて宗義を奏し、諫暁に至った。
既にこの時、敗者の讒訴があって持氏はこのことを怒り、日蓮義を禁断し、鎌倉の法華堂一六箇寺を壊滅せんとし、改宗しない者を罰しようとした。
しかし処刑を願う僧俗が六〇余人に及び、持氏はこれに驚いて遂にその禁を解いたという。
これを「永享法難」という。
持氏は法華宗の弾圧に失敗し、管領持氏、執事憲実は夷堂及び二丁四方の土地を寄進し、夷堂橋際に妙厳山本覚寺の建立となった。
このように一乗房日出は身延門流の末弟として、折伏弘教に邁進し、甲州・三島・伊豆・鎌倉方面へと教線を拡張し、熱烈な伝道者としてその生涯を閉じた。
ときに長禄三年四月九日七九歳であった。
日出の門には室町期の代表的な学僧・行学院日朝がある。
《『日本仏教人名辞典』「日出」の項、『国史大辞典』一一巻「日出」の項》
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