応永新条目
応永新条目
おうえいのしんじょうもく
永和四年(一三七八)正月、京都妙顕寺朗源は五三歳をもって急逝した。
頓寂であったため後資が定められていなかったから、妙顕寺大衆は長老の日実、日成、通源の三人を法灯継承の候補とし仏前の鬮をもって決することとしたがその結果は通源に当った。
日実・日成は妙顕寺を退出し、豪商小野妙覚の帰依を得て妙覚寺を建立した。
日実は間もなく備前に下り、さきに大覚妙実の時改宗した福輪寺(元真言宗)を改称して妙善寺と号し、ここに住したが、六月七日、六一歳をもって入寂したので日成は日実を妙覚寺第六世におし自らは第七世として同寺経営に当った。
妙顕寺通源は日霽(にっせい)と号し、生れは鎌倉の足利氏満の三男、将軍家及び朝廷貴縉の帰依を受け智徳余人にすぐれ行徳他に秀で世間仏法の才人と称せられたが、公武縉紳に近づき日像門家の折伏弘通、不受不施精神を忘れ権威に迎合し摂受寛容の風をもって門家の通規と考えて心ある人々の指弾を受けたが、ついに弘経寺、妙願寺、妙教寺を分立せしめるに至った。
当時日什門流、日陣門流は盛んな活動を行って宗風を宣揚したが、日成は妙顕寺風儀の衰退をなげき折伏行化の旌旗をたてて門流の風儀を正さんとし、応永二〇年(一四一三)六月一三日「妙覚寺法式 法華宗真俗異体同心法度之事」九条を定め門家の行規とした。
世に「妙覚寺法式」「応永新条目」といわれる。
この行規は京都日蓮宗に大きな影響を与え、従来信条として暗黙のうちに実行されていた不受不施義を宗門制度、法度として確認させた。
なお本条目の追加に「高官大家」の公武を除外しているが、当時の不受不施制が王侯除外のものであったことを示している。
《立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上、宮崎英修『不受不施派の源流と展開』》