御真骨奉遷
御真骨奉遷
ごしんこつほうせん
祖滅七年目の正応元年(一二八八)日興身延を去って六老僧等による祖廟輪番給仕は廃され、日向が別当となって祖廟格護に任じた。
以来祖廟域一帯は最尊の地として歴代住職、門下の僧俗異体同心に守護した。
祖滅一八〇年寛正二年(一四六一)第一一世行学日朝が入山し、一五年後の文明七年(一四七五)西谷から諸堂を身延山現在地に移転し、御真骨も新建の舎利殿に遷し奉った。
こうして西谷の旧地は中古以来住民の共葬の地と化し次第に大小の墓石が築かれた。
歴代住職はこのことを嘆かれたがとりわけ三三世遠沾日亨は、地を得て墓地を移し聖域の浄化を図るべきことを厳訓した。
明治になって薩・鑑・修三師発願の身延保存会は即ち祖廟整備の大事業を遂行するため資金の勧募機関であった。
第七九世小泉日慈代大正一〇年に祖廟釐整会(りせいかい)が設立され、大規模の計画の下に着実に工事を進め、昭和八年概ね所期の整備事業完成を見たのでこれを解散し、新たに祖廟備整会が組織され、同一〇年祖廟奉仕会の設立となり、また昭和一三年(一九三八)三月宗会において祖廟中心制度(別名法主即管長制)が制定された。
更に祖廟中心は観念に非ずして実践なり、祖廟奉仕は理想に非ずして身行なり、とて祖廟奉仕の具体的実践方法、即ち日蓮聖人に対する報恩を表すための機関として、昭和一四年五月第三四宗会において祖廟中心大法灯会が結成された。
同年一一月制定の「身延山山規」に、「宗祖ノ御真骨ハ霊廟完成ノ上、還元シテ奉安スベキモノトス」と規定されていたが、同一七年三月改定の「久遠寺寺院規則」には削除されている。
久遠寺は同年九月二九日の祖山会において、翌一八年を期して還元式典を奉行するの件を諮り、一〇月二五日御聖骨の池上より身延に御帰着の日をもって式典を行うの件を決定した。
しかしながら一七年暮から翌年にかけて、祖廟工事の下里是察司監が急病に倒れ、一八年正月一五日柴田顗秀総務にわかに遷化するなど山内多事であった。
三月四日祖山常置会において、本年戦争は最も苛烈なるべし、を主たる理由として還元式典の延期を決定した。
更に九月二三日望月日謙法主が遷化した。
深見日円第八四世を継承、戦敗の混乱一段落の昭和二七年に開宗第七〇〇年を迎えるに当り宿願の式典を奉行することになった。
しかし、同年六月になって身延山と最も縁故深く丹精の功多大な尾張名古屋の信徒二四〇〇名は還元反対歎願書を増田日遠宗務総監に提出したがこれを無視して強行することは到底不可能の状態であった。
かねて深見法主は九月一日教旨をもって、未だ工事十分ならざるを主旨として延期を表明したが同三二年二月七日深見日円遷化、増田日遠第八五世を継承、同三四年一月一九日、身延に開催の第六宗会において、同年一〇月奉遷の件が可決され、ここに宗門、身延山一体となって諸準備が行われつつあったが、増田日遠突如退位を表明し、藤井日静が八六世を継いだ。
既定の方針に遵い鋭意奉遷準備に努力中、八月七号台風、同九月の一五号台風(伊勢湾台風)が襲来し、近代に見ざる大被害を受け、到底奉遷は不可能の状態となったので、身延山当局は関係諸機関と協議し、宗務当局に奉遷の延期を陳情した。
宗門は宗会常任委員会に計りこれに同意し、祖廟域一帯の復旧成るまで延期することに決定した。
その後同三六年一〇月の第六号、四一年九月の第二六号台風のためまた甚大な災害を受けた。
即ち奉遷は祖廟域の安定が各種の立場から確認されるまで延期されているものである。
今日に及んで種々意見を聞くが、既往の災禍その他山史の跡に鑑み本件は慎重に研究する必要がある。
《『身延山史』、教報『みのぶ』、祖廟整備工事に関する諸文献》