妙興寺(千葉県千葉市)
妙興寺(千葉県千葉市)
みょうこうじ
日蓮宗由緒寺院の一つ。
千葉市若葉区野呂に所在。
長崇山と号す。
末寺六ヵ寺をもつ旧本寺。
江戸期には除地高二〇石、山林竹木免除。
延徳二年(一四九〇)に八世日珍が記した寺伝(写)によると、聖人直檀の曽谷教信(法蓮)の嫡子曽谷四郎左衛門直秀(道崇)の建立と伝える。
曽谷氏は市川市の曽谷・大野地区を領する豪族であったが、父教信は松戸市平賀を領する平賀氏と同族であった関係からか平賀に在郷した。
道崇は野呂の石井左近と縁家なので父と別居して野呂に移った。
のちに法蓮が平賀に一寺を創建しようとしたが、道崇は野呂に建立の希望があり、父子意見が相違して五ヵ年間不和が続いていた。
建治元年(一二七五)十一月一日に道崇が当寺を建て、身延の聖人に代官として直弟を派遣されることを請い、聖人から大受阿闍梨日合が遣わされて開山となった。
日合は安房(千葉県)東条郷天津の出身で、姓は工藤、幼名は但馬丸といい、兄の左近将監は同国で名ある武士(小松原法難の殉死者工藤吉隆と同人とはしない)だという。
聖人はこの日合を六老僧に次いで鍾愛し、野呂の地にも立ち寄られて桜樹を御手植になられた。
また日合は安房国出身なので、氏神の安房栖大明神を門前に祀ったと伝えている。
『当門徒継図次第』は開山は日朗の弟子大受律師日受(日合の誤記か、同人か)で、平賀本土寺とは共に曽谷父子開闢の寺という極めて密接な関係にあるという。
下総国(千葉県)の日朗門徒の弟子檀那は、従来平賀本土寺の成敗という約束であるから、いま(永正八年以前)は本土寺が代官を置いて妙興寺を支配していること、比企谷本行院日顗(-一四二九)が野呂の出身で当寺五世となったことなど多少の異説を記す。
また当寺に伝存する古文書類には、平賀との関係を妙興寺側の主張を入れて記されたものがあり、下総国の日朗門徒の弟子檀那はこの両寺が成敗すべきことが日朗、日伝以来の約束であったとする。
永禄五年(一五六二)九月の日隆(平賀一三世)の相伝書には、野呂と平賀は開山の檀那が兄弟であるから両寺の間には本末関係はなく、共に一箇の本寺で永代その心得が肝要であるとしている。
開山の檀那を兄弟とするのは誤伝であろうが、とにかく中世における両寺とその門流の本寺化にからむ支配関係が極めて複雑だったらしいことが、これらの史料から想定できる。
当寺開創の地は野呂の西南に当る加納ケ邱の地で、そこに七堂伽藍を擁していたが、永禄三年二月に里見氏の兵火で焼失した。
時の住持日厳はこの地が水路不便という理由で、現在の芳賀山の地一〇町余を地頭斎藤善七郎胤次から寄進をうけて移転し、ここに再建した。
寛永不受論(身池対論)で池上の犬坊本行寺を出寺した不受不施僧中妙院日観は、当寺に住して檀林を開き、学侶の教育に専念した。
この学室は江戸初期における不受不施派の一拠点として次第に発展し、守玄日誠、性智日述、持誠月明、日玄、安国日講などの学僧が相次いで能化となった。
祖師堂は天和二年(一六八二)に芸州(広島県)太守浅野(松平)光晟の室自昌院(前田利常の三女。母は徳川秀忠の第二息女)が一〇〇〇両を喜捨して寄進し、同年水戸の久昌院も綱晟の菩提のために経蔵を建立した。
《『当門徒継図次第』、『妙興寺文書』、『日蓮宗大観』、『本化別頭仏祖統紀』》