妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

八日堂の由来

ようかどうのゆらい #730

八日堂の由来

ようかどうのゆらい

祖伝中駿河(静岡県)岩本実相寺で一切経を閲覧するため鎌倉を出発、沼津を通りかかったおり、海辺のお堂で八大竜王神の感応供養をうけ、この奇瑞が縁で妙宝寺、妙海寺の誕生となる段である。
建長五年(一二五三)四月二八日清澄山上で立教宣言された聖人は、同年八月鎌倉松葉谷に居を定められ、小町の辻に立って布教を展開されたが、建長、康元、正嘉と目まぐるしい改元の示す通り変地異が続き、人心の乱れはその極に達していた。
この様子をご覧になって聖人は、「これは国の施政に根本的な誤りがある証拠である。今一度一切経を拝しその誤りを究明しよう」と、正嘉二年(一二五八)正月六日、御草庵を出発された。
お供は一四歳になったばかりの日朗一人である。
一月八日車返(今の沼津)まで来ると日が暮れてしまったので、斎藤弥三郎利安という者の守る小庵に一夜の宿を願った。
利安は快く引受け、洗足、食の面倒は言うにおよばず茶菓まで出して聖人をもてなした。
初対面の利安であったが、聖人をひと目拝するや「この方は立派な方だ。この方なら父の代から念願のご回向、きっとかなえてくれるにちがいない」と心に決め、語り出したのが、源平の戦に敗れ一度は仏門に身を投じ妙宝禅師の位までもらいながら、なお平家の栄華忘れがたく、文覚とともに再び事を起そうとして捕えられ、建久九年(一一九八)酒匂川の河原で打首にされた平の正嫡、六代公の物語りであった。
この六代公を幼少のから警固していたのが斎藤六範房、ち利安の父であった。
範房は六代公の御首が三日三晩晒首にされたそのに御首をぬすみ出し、夜隠に乗じて沼津の千本松原に至り、とある老松の根本に御首を葬った。
そしてそこにお堂を建て朝夕華を供えていたが、追捕の手は範房にまでのびてきたので、やむなく、御位牌のみを持ち伊豆の山奥に落ちのびて行ったのである。
後年父の命をうけた利安は、人に顔の知られていないを幸いに堂守りをしているが、いつも心にあるのは「六代様と慈父に御回向してさしあげたい」の一念であったと涙ながらに語るのであった。
この物語りに心うたれた聖人は、「それではあらためて六代様、範房公に御回向申し上げましょう」と日朗とともに法華経一巻を読誦された。
すると海上はるかにピカリと光る火の玉が現れ、聖人の回りを照らした。
しかもその数八つを数え、暗やみの海辺の小庵はまたたくうちに日中の明るさとなった。
これをご覧になって聖人は、「これぞ話に聞く龍燈にちがいない。その数八つは八大龍王が我が法華経の修行を喜び感応供養すと覚えたり」と、利安を始め近郷の農漁民はこの奇瑞をみて「これで六代様は成仏された。だから法華経のご守護神が姿を現されたのだ」と今更のように聖人のご信心の深さに驚き、深く帰依の心をおこした。
この小庵での奇瑞は毎年一月一日から八日まで行われる八日堂祈祷会として今日に伝えられている。
聖人帰依した利安は、聖人が二度にわたる岩本実相寺ご滞在中はもとより、身延山にお入りになってからも度々訪問し御教示を仰いでいたが、遂に建治二年(一二七六)一宇を建立して六代公の菩提と法華信仰の道場として聖人に寄進した。
山号の満松山は六代松付近の字名満松からとり、寺号の妙覚寺は妙覚禅師の法号をそのままつけたものである。
利安は聖人から優婆塞日安の法号を授与され、妙覚寺の開山となった。
なお妙覚寺は今日まで法灯が継承され五三代を数え寺門は隆昌している。
また一説には、山本利安の自宅が妙海寺となり、ここが小庵のあとともいうが定かではない。

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