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御草庵

ごそうあん #2128

御草庵

ごそうあん

日蓮聖人が文永一一年(一二七四)より弘安五年(一二八二)にいたるまで住いした身延山西谷の旧跡。
『庵室修復書』によれば「文永十一年六月十七日に、この山のなかに、き(木)をうちきりて、かりそめにあじち(庵室)をつく」った。 それは「十二のはしら()」(定一四一一頁)を四囲にもつ建物、ち三四面の草庵であった。
身延山御書』に「庵の内には晝は終日(ひねもす)に一乗妙典の御法(みのり)を論談し、夜は竟夜(よもすがら)要文誦持の聲のみす。
傳へ聞く釋尊の住み給ひけん鷲峰(じゆほう)を我朝此砌(みぎり)に移し置きぬ」(定一九一五頁)とあるように、聖人はここで弟子・檀越教導し、法華経の読誦に励み、後代万年の準備と自らの滅の生活を送った。
最初のかりそめの草庵から弘安四年一一月には新たに一〇四面の大が建立される。 そして、聖人の示寂後は「いづくにて死に候とも、はか()をばみのぶさわ(澤)にせさせ候べく候」(定一九二四頁)との遺言に基づきこの地は廟所となった。
その後文明七年(一四七五)のころ一一世日朝は祖廟域のせまいことを憂えて、諸堂宇を現今の地に移転拡張して御真骨を奉遷した。
この後の祖廟域は身延住僧・地域住民の墓地となっていくと共に、日蓮聖人棲神の地にたいする渇仰追慕の念に基づき、諸国の日蓮門徒の埋骨の地としても次第に膨張発展して、大小の石が建てられていった。
三世日亨はこうした状況を指摘し、後代の貫首(法主)に葬場は別に設け祖廟域を浄化するよう遺誡している。
明治に至り二五年(一八九二)御草庵跡の方一〇間にみかげ石の玉垣が設けられ、大正一三年(一九二四)鷹取山麓に共同地が完成して石の移転が行われた。
以後歴代法主と多くの人々の努力により祖廟域の整地、域内諸施設の新築修築等、祖廟域の浄化がなされてきている。 また祖廟中心の気運が全宗門的に弘まっていき、昭和三三年(一九五八)には寺院住職・教会担当教師による祖廟輪番が設けられ、僧俗の登詣奉仕が行われている。 祖廟塔への御真骨還元も何か企てられてはきたが、不慮の災害などによりそのに延期せられて今日に至っている。
《『日蓮聖人典』(雄山閣)「山梨」の項》

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