光勝寺(佐賀県小城市)
光勝寺(佐賀県小城市)
こうしょうじ
佐賀県小城市に所在。
松尾山と号す。
日蓮宗由緒寺院の一つ。
中山法華経寺第二世の日高の依嘱を受けた日厳が、宗門弘通のために小城の地に下向し、ここに建立したのが光勝寺である。
この意味で光勝寺は日蓮宗の九州における最初の拠点として、重要な役割を負った寺である。
日厳が九州に下向した時期は正和二年(一三一三)も末のことであろう。
それは深川勝妙寺(小城市三日月町深川)に、日蓮聖人の曼荼羅本尊と共に伝わる、正和二年九月四日付の日高筆曼荼羅本尊の脇書によって窺われる。
即ち「授与之日厳、為㆓ 鎮西弘法㆒ 下向砌(これを日厳に授与す、鎮西―九州―弘法のために下向の砌)」とある。
恐らく日高は鎮西に伝道のために赴く日厳に対し、日蓮聖人の御真筆曼荼羅本尊に自ら染筆した曼荼羅本尊をそえて、門出の餞としたものと思われる。
小城の地に着いた日厳は、この地の地頭たる千葉胤貞の保護を受け、光勝寺を建立した。
胤貞はさっそく寺領を寄進したようで、元徳三年(一三三一)九月四日付の「千葉胤貞譲状」には「肥前国小城市光勝寺職、同妙見座主職、同乙犬名等」の記載がある。
日親はその著『埴谷抄』に「小城最初の寺は光勝寺なりけるを、松尾へ被移し後は本光寺と称す」と述べて、光勝寺建立当初の有様を物語っている。
日厳に次いで小城に下向したのは中山三世の日祐から派遣された智観房日貞である。
彼は日祐から長文にわたる『当家法門目安』という書を与えられ、これを携えて小城に赴いた。
延文六年(一三六一)のことであった。
日貞は以前にも増して厚くなった千葉氏の被護を受けて伝道活動を展開し、相当の成果をあげたようである。
松尾山光勝寺の歴代譜に日貞を開山として掲げているのをみると、このころに光勝寺の基礎がやっと固まってきたのだろう。
小城市の平野部、つまり今日の小城町や三日月町方面に末寺が出来るようにもなったが、全体的にみてその勢力は他宗を凌ぐにはいたらなかった。
やがて、いつの頃であろうか光勝寺の住職を「九州の導師」と称するようになり、中山法華経寺の重要な役職として位置づけられた。
中山法華経寺では室町時代になると急速に教団体制が整い「導師職」という職名が現れる。
例えば「千田庄導師職」・「曽谷郷導師職」・「大野郷導師職」というようにである。
このことから推測すると光勝寺の住職は「九州導師職」と呼ばれたのであろう。
一五世紀の初め、永享五年(一四三三)に九州の教団を指導・統率する最高責任者として貫首から任命され、この地に赴いたのが有名な「なべかむり日親」であった。
日親は極めて厳格な信仰的態度をもって光勝寺に臨んだが、檀越の千葉胤鎮は必ずしも日蓮宗のみを信仰していたわけではなかった。
日親はこれを「御信心ノ様、更非当宗本意」といって糾弾したが、かえって中山法華経寺の門流から破門された。
永享九年のことで、光勝寺を追放された彼はそのまま京都にのぼり、はなばなしい伝道活動を展開した。
一方、日親を光勝寺から追放した後の千葉胤鎮は、弟の胤紹のために追放されて山野にかくれたが、やがてそれを奪回して元の地位についた。
このような体験から千葉胤鎮は九州に伝道を続ける日親に帰依して曼荼羅本尊を授与された。
しかし日親は再び光勝寺に帰ることはなかった。
日親は京都に本法寺を創立して一門流をたてたのである。
江戸時代になって中山法華経寺が本法寺・頂妙寺・妙国寺の三山輪番の貫首制をとると、日親の立場は中山門流において再び喧伝され始めた。
光勝寺中興としての日親は、このようにして今日にまで伝えられたのである。
一方、江戸時代初期における日憶の運動などもあって、光勝寺の古刹としての名声はとみに上った。
寛永一〇年(一六三三)の末寺帳によると、寺領一〇〇石を領し、それは本山中山法華経寺の寺領五二石を優にしのぐものである。
伝来する寺宝も多く、宗門内外の参詣者は後を絶たない。