開宗六百五十年
開宗六百五十年
かいしゅうろっぴゃくごじゅうねん
明治三五年(一九〇二)の開宗六五〇年は、日蓮門下各派の提携連合という気運の中で幕を開けた。
一月二八日、中川観秀、加藤文雅らは「聖祖門下懇親会」を東京に開き、門下合同による記念式典、道路布教、施本布教、全国宗徒大会の実施を決議した。
大会役員は顧問七、常置委員六、協賛員八五、中央準備委員二六、地方準備委員多数となっているが、田中智学が顧問中唯一人の在家として準備委員会から参加している。
三月二六日大会宣言書を新聞社、雑誌社に発表。
四月に入るとまず二一日、紀念序式を聖祖門下各派教団参集の下に深川浄心寺で開催。
更に大演説会が二一-二日午後一時浄心寺。
二五日午後昼夜、神田錦輝館。
二六-七日午後一時池上本門寺で行われた。
一方、街頭では「立正安国会」(国柱会の前身)を中心に、道路布教、施本布教やその行進が積極的に展開された。
正当の四月二八日には紀念正式が上野公園竹ノ台で挙行された。
当日は日本橋小伝馬町祖師堂から、御本尊を中心に大導師日蓮宗管長浜日運、各教団管長、檀信徒天童稚児少年少女音楽隊が行列行進して会場に入った。
翌二九-三〇日は、全国宗徒大会を神田錦輝館に開き、布教の策励、新聞の発行、日蓮門下各派合同統一の実行を期す件など、一七項を決議した。
同五月には風俗画報の特別増刊として「開宗紀念大会図絵」を刊行したが、更にこの年日蓮聖人御遺文を広く多くの人々に伝える目的で、前記加藤文雅により「日蓮聖人遺文縮刷」の出版が発願され、稲田海素を主任とし風間淵静らにより真蹟対照の作業が開始された。
また前年の明治三四年に文学者高山樗牛が、田中智学の『宗門の維新』を読んで感銘し、日蓮聖人の信奉者となった。
樗牛は雑誌『太陽』等で大いに日蓮聖人とその信仰を宣揚したが、開宗六五〇年のこの年一二月二四日、三二歳で没した。
開宗六五〇年の特徴は、開宗会が始めて日蓮門下各派教団合同のもとに営まれたことであり、伝道が広く大衆の教化をめざして意欲的に取組まれ、各派統一という志向のもとに挙行されたことである。
《『紀念大会図絵』、『紀念大会顛末録』》