日述(生知院)
日述(生知院)
にちじゅつ
(一六一一-八一)
字は存琢、初め事円院、のち生知院と号す。
慶長一六年五月越後国針崎に生まれ円智院日受について得度、長じて関東の諸檀林に学んで学誉徳行大いに聞え、野呂檀林三世、松崎檀林九世、山科檀林、中村檀林に招ぜられ、峯妙興寺一七世、伊豆韮山本立寺一二世、平賀本土寺二一世を歴任、とくに平賀在住五年のころは概ね五一歳から五六歳のころ、受不受論が幕府権力によって結末をつけられるときであったが、このころ日述は是心院日迨の書状によれば、「末世の日蓮再誕様」と崇敬され、不受派の頭領として指導的地位にあった。
寛文元年(一六六一)八月二七日、幕府は受派の身延日奠らの本末統制・不受不施禁止の訴えに対し、従来の本寺離反の諸末寺は本寺支配に入り、一方、平賀本土寺・小湊誕生寺・碑文谷法華寺の本末寺院は不受不施の法理を守るべきことを布告した。
間もなく寛文五年、幕府は寺社領の朱印地の調査と再交附に際し、この度の朱印地は徳川家の供養として与えるものであるからその手形(受領証文)を提出するように命じた。
これは寺領を供養とする受派年来の主張を認めたもので、これによって不受を標榜していた勝劣派諸山も一部を除き悉く手形を提出した。
他方、一致派の平賀・小湊・碑文谷三ヵ寺を指導者とする不受派諸山は幕府の強硬な態度におされ進退に窮したが、日述はよくこれをまとめ、とにかく手形は出さぬという態度を決したのである。
しかし手形を出さねば朱印地の寺格特権は消失するのであるから、碑文谷日禅、小湊日明等は何らかの方法を構じて朱印を受けようと種々に画策したが、寺領を悲田として受けることを考え、ついに寛文五年一一月二五日悲田供養として受ける手形を出したのである。
日述と共にあくまで不受義をたて手形を拒んだのは野呂檀林日講、玉造檀林日浣、上総興津明覚寺日堯、雑司谷法明寺日了、大野法蓮寺日完等でこれらが中心となって結束をまとめたのであるが、幕府は同年一二月三日寺社奉行加々爪甲斐守直澄をして日述・日完・日堯・日了を配流、翌六年五月二八日に日講・日浣を配流した。
勝劣派の方では妙満寺派の日英・日応・八品派の日通・日受が五年一一月に流されている。
日述は伊予国吉田伊達宮内少輔宗純のもとへ日完と共に預けられた。
日完は宗義、道念未練にして配所にあっても所行おさまらず人々の嘲笑をかったといい、日講の『説黙日課』によれば「寛文十三年二月二十七日横死」したと記し留めている。
日述は配所にあっても人々の崇敬をうけ宗純は六人扶持を給し小者一人をつけて日常に給仕させた。
日述は配処にあって在国の内信者たちの指導にあたり、彼らの日常の生活、儀礼、法式いわゆる不受不施派の清規を示して異解を防ぎ行軌を教え、延宝七年(一六七九)備前岡山の寂照日玄の法式儀礼に関する質問に対して懇切に解答し指導している。
これがいわゆる『内信得意抄』で日述はこの年より二年後天和元年(一六八一)九月一日七〇歳(または七一とも)をもって入寂するが、その翌年、備前において日指庵の覚隆日通と津寺庵の覚照日隆の間で内信の指導と法立の扱いについて争いを生じ、次いで不受不施派を日指と津寺の二派に分裂させてしまうが、日述の死とその指導を生かすべき人が近くにいなかったことは返す返す残念なことであった。
日述住庵の旧跡はいま聖人寺といい、これより南方六〇〇メートルばかりの所に小高い丘がありここに葬った。
これを聖人山という。
なお不受不施派では日述・日講・日浣・日堯・日了・日庭の六人を日奥・日樹らの前六聖にならって後六聖という。