妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日英(妙親院)

にちえい #2938

日英(妙親院)

にちえい

(一三四六-一四二三)
妙親院と号す。埴谷妙宣寺開山。のち中山法宣院の主ともなる。
・日親の師。
日英は上総埴谷の豪族埴谷左近将監重継の弟といわれ、初め法宣院日貞の弟子となったが、幼にして日貞遷化(康安元年=一三六一=日英に一五歳)にあい、中山法華経寺第四世日尊のもとで勉学精励、そしてのち中山法華経寺団の発展に大いに寄与する。
明徳元年(一三九〇)埴谷重継(法号日継)は妙宣寺を建立し、日英を開山と定めて中山日尊を導師として招き、盛大な開堂供養を執行した。
この中山法華経寺と身延久遠寺との間に法服の問題が起った。
つまり中山法華経寺は威儀をただすために七条法服を着すべきだといい、身延久遠寺は、これは謗法衣であって日蓮聖人の遺志を守って着るべきではないと主張した。
ところがこの論争はなかなか決着がつかず、遂に鎌倉の関東管領のもとに訴訟が持ち出されるに至った。
この折、中山法華経寺の貫主日尊の雑掌=代理人として法廷に出て、身延側を論破して中山法華経寺を勝訴に導いたのが侍従律師という重要な立場にいた日英であった。日英はまた千葉氏(中山法華経寺の大檀越)の支配・血縁関係をたどり、上総・下総を中心に諸方に弘通所を作って各地に地盤を固めた。
応永二四年(一四一七)八月の日英譲状(日英末寺等支配注文)によれば、末寺講演職は上総・下総・武蔵・安房・鎌倉・京および海道筋にわたっており、松崎顕実寺・鎌倉妙隆寺・片瀬竜口院(今の竜口寺)等九ヵ寺、法華堂・上村仮御堂・種垂御堂のごとき堂、阿弥陀堂并講坊のごとき堂に付随している職とそれを根拠にした講坊の結成、八日市場講・平子講演等のごとき各地の講、河田谷檀那・小石川檀那のごとく在地の有力者、豪族とうかがえる人々を中心とした講衆等が見られる(『法宣院文書』)。
日英は妙宣寺を中心にこれを組織し、かつ千葉氏を背景とする強力な援助によって華々しい団の拡張が行われた。
日英の建立寺院は七六ヵ寺と伝えられるが、この数は譲状に記された弘通所のすべてを挙げても三〇ヵ寺にはならない。
おそらくこれは後に建立された寺院に日英を開山に仰いだものを加えたり、またその弟子日・日親の功績を師に加えて七六ヵ寺という数にしたものであろう。
しかしながら譲状に現れた多くの弘通所は、日英の活動がいかに広範にかつ精力的に行われていたかを見るにたるもので、日英はこれら諸末寺講坊をもって妙宣寺支配とし、妙宣寺を「私本寺」とした。
かくて妙宣寺がこれら諸末寺講坊を私本寺たる妙宣寺を通して本寺中山法華経寺に直結せしめたように、中山門流は法華経寺を頂点とし諸末寺を支配する団組織のもとに大きく発展していった。
日英は応永二七年七月一六日、改めて「置文」と「譲状」を認め、後を千代寿龍(日)・寅菊丸(日親)にし、同三〇年八月一〇日七七歳にして没した。
立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上、中尾堯『日親―その行動と思想―』、宮崎英修『日蓮宗徒群像』

← 事典トップ