日祝(月蔵房)
日祝(月蔵房)
にっしゅう
(一四三七-一五一三)
京都頂妙寺の開山、月蔵房と号す。
永享九年に下総圀(千葉県)で生れ、九歳の時に中山法華経寺(千葉県市川市)第六世貫首日薩に従って出家した。
千葉氏の一族で幼名を千鶴と称したと伝える。
中山門流の中で修学した日祝は、三七歳の時、文明五年(一四七三)に上洛し、庵室を構えて説法を始めた。当時の京都では応仁の乱による荒廃の極に達した社会情勢で、治安の定まらない巷では人びとが拠り所を求めて右往左往していた。このような中で、東国から上洛した日蓮宗の僧侶たちは、京都の人びとから大きな期待をもって迎えられた。日祝もその一人であったのである。
後に、公家として有名な近衛政家・尚通父子が、日祝に親近して説教聴聞のために頂妙寺へしばしば赴いていることからすれば、日祝の弁舌は人なみすぐれたものであったに違いない。
このような日祝の説法に打たれた一人に、土佐国(高知県)の守護職たる細川勝益があった。勝益は早速に日祝から受法し、大檀越となって広い寺地を寄進し、伽藍を建立した。これが京都二十一箇本山の一として有名な聞法山頂妙寺である。勝益が日祝に捧げたこの地は高倉にあり、上は綾小路、下は四条、西は万里小路、南は富小路に至る、四丁町に及ぶ広大なものであった。勝益は日祝に「現世安穏、後生善所」の祈りを托して祈願寺とするとともに、自己の「頓證菩提」を念じて菩提寺とした。文亀二年(一五〇二)六月二日に没した勝益は、頂妙寺に葬られている。
ところで頂妙寺における日祝の説法はまことに見事で、多くの人びとを感動させたようである。
公家の中でも名家のほまれ高く、かつ日蓮宗信者として有名な近衛政家は、頂妙寺にしばしば参詣している。政家の記した『後法興院記』に頂妙寺参詣の記事が初めて現れるのは文明一三年のことで、その後しばしば参詣しては法談を聴聞し、日祝と非公式に面会している。日祝の方からも、何かにつけて政家を訪問している。両者の往き来は月の一六日と一九日が例となっていたようである。
明応七年(一四九八)七月二五日には、日祝が政家を訪問して、近況を報告している。これによると、日祝はその年の二月ごろから河内国(大阪府)へ下向していた。そのついでによって、畠山尾張守尚順のところに赴いて対面し、盃を重ねた。この時日蓮宗の法門などを述べたところが、尚順は信心を起こし、ついに吉日を選んで受法したという。日祝の近畿地方における伝道活動の一端を、ここに窺うことができる。近衛政家の子尚通も、日祝と親交を続けている。
尚通の日記『後法成寺尚通公記』によると、年頭歳暮の礼、時々の往復、進物、法談聴聞など、政家におけると同じように行っている。
日祝の説法は、このように公家・武家・京都の町人・農民たちを広く教化できるほどの、まことにスケールの大きいものであった。
明応八年六月、土佐国(高知県)に細川氏の外護を得て開創した桂昌寺を始め、末寺や門末の僧侶に対して、日常の勤めなどを定めた掟を制定した(頂妙寺文書)。
僧俗の勤め出家の定め、謗法の禁止など六ヵ条を決めた上で「此旨に異背する輩においては、住持をもって京都に注進あるべき」と、厳しく掟を定めたのである。
永正一〇年(一五一三)四月二日、八七歳の日祝は、大乗房日言を付弟と定めた「付属状」を認めた。日言を日祝の後継者として立て頂妙寺を始め「諸末寺等、進退たるべく候也」と後事をすべて委せたのである。日言は幼少の時に日祝の弟子となり、中山法華経寺に赴いて宗旨を学び、九州松尾山光勝寺において一〇年の間導師を務めた「行学兼備」の僧であった(「日言三三回忌諷誦文」日珖筆)。
やがて同年四月一二日、一首の和歌を詠じて、八七歳の一生を終った。
辞世
「八十あまり七年かけて人を渡す命ながらの橋ばしらかな」
なお、長享二年(一四八八)には、僧正に任じられている。
《宮崎英修『続・日蓮宗の人びと』、『日本仏教人名辞典』「日祝」の項、『国史大辞典』一一巻「日祝」の項》