日暹(智見院)
日暹(智見院)
にっせん
(一五八六-一六四八)
字は隆恕、はじめ日遜、のち日暹と称し、智見院と号す。
日遠の門に投じて刻苦研究し、弁才に長じていたので世の人は称して富楼那日暹と呼んだという。
不受不施派の開祖日奥は対島流罪から赦免されて京都に帰り、元和元年(一六一五)頃『法華宗諸門流禁断謗施条目』を著して身延山および日乾を攻撃したが、日乾は身延当住日遠と相談し、隆恕即ち日暹の名をもって反論一巻を作りこれに反駁した。これが『破奥記』と呼ばれているものである。
日暹は招かれて上総の小西檀林に講じたのち、元和九年日深の後を承けて本満寺一一世を継いだ。
寛永四年(一六二七)には本阿弥一族の外護を得て京都に鷹ケ峰檀林を開いた日乾の推挙に応じてその講主となり、翌五年日深の後を再び襲って身延山二六世に晋んだ。
翌六年二月日乾・日遠の援護をうけた日暹は受派を代表し、身延謗法・身延参詣堕獄を主張する日奥・池上日樹を始めとする不受不施派の取締りを幕府に訴え出た。
一年後、幕府の召喚による両者の対論が行われ、寛永七年四月二日幕府の裁許は下された。
このいわゆる身池対論によって日暹を代表者とする身延側=受派は勝利を得、日奥・日樹らはそれぞれ流罪に処せられ、池上本門寺は日暹に、京都妙覚寺は日乾に与えられたのである。
しかしその末寺の多くは依然として不受不施の姿勢を崩そうとせず、本寺から離反していき、本寺は本寺としての機能を喪失していった。
また他にあっても不受不施派の抵抗は著しいものがあった。
そこで日暹は身池対論以後も殆んど江戸にあって繰り返し訴状を提出して不受不施派の追討に努めた。
日暹が訴状で最も力を注いだのは、法義面では地子・寺領は国土の御布施供養に決定したという裁許の御朱印の下附であり、実際上の問題では平賀・小湊・碑文谷の支配、制度上の問題では本寺・貫首権を認める日蓮宗法度の制定を請うにあった。
日暹は志なかばにして慶安元年五月二九日斃れたが、その遺志は後を継いだ日境・日奠等にうけ継がれ、やがて身延山久遠寺は日蓮教団を代表するようになっていった。
なお日暹の業績に身延久遠寺蔵日蓮聖人真蹟中の草案や各種文献の写本・要文等を模写集成した貴重な仕事、いわゆる『延山録外』の編纂がある。全四冊が身延文庫に現存するが、その全貌は未公開である。
《『日本仏教人名辞典』「日暹」の項、『国史大辞典』一一巻「日暹」の項》\\