日伝(宝聚院)
日伝(宝聚院)
にちでん
(一四八二-一五四八)
身延一三世。諱は日伝、号を宝聚院と号す。出生地不詳。
身延一一世行学院日朝の室に入る。
性は柔和寛厚、人を愛し学も敏なりと伝わる。
日朝はその学才を愛し、一二世円教院日意に直接の訓育を嘱す。
当家の大事を研鑽、遂に日意の嘱をうけて永正一六年(一五一九)身延一三世の猊座に晋んだ。
日朝・日意の身延中興の事業を継承し、祖師堂(一七間四方・椽各二間)の再建、あるいは天文一四年(一五四五)には西之坊日祐・大蓮坊日守を施主として、池上縫允正重を棟梁にして祖師之宮殿を造営した。
また稚児舞堂(三間四方外椽付六本柱)の建立など、祖山の輪奐の美を整えた(『身延山略譜』)。
たまたま甲斐(山梨県)守護武田信虎、悪疾病に罹り、医を尽し神に祈り、真言秘法を施したが効験なし。
そこで信虎が思うに「身延山は法華経の霊場、鎮守七面明神を祭祀す、速に疾を慰さん」と願い祈る。
信虎は身延日伝を甲府に招いて祈念すれば平癒したという。
信虎大いに喜び一寺を建立して日伝を開山となす。
即ち今の甲府市若松町信立寺がこれである。
その子晴信(信玄)が身延山外護の施策をとったのは、父信虎の縁によるものである。
日伝在世中、身延三門仁王像奉祀の故事が今に残されている。
即ち鎌倉に六浦平次郎光善(入道して法号妙法)は、相州六浦に真言の廃寺があったので、一心に唱題して「上行寺」と扁した。
その上行寺に密迹金剛の旧き仏像二体が存した。
ある夜六浦入道は夢中に「吾傳に往かんと」、入道思うに傳とは身延の日伝のこと、早々に二仏体を肩にして身延に向けて出立す。
他方日伝も山徒に告げて「今日、密迹金剛二大像を感得せり汝等之を侍て」と、果して入道が来たる。
日伝は山本坊に二大像を奉持し、後に門を造ってこれを奉祀す。
今の七尺六寸の仁王尊像がこれなりといい、日伝また六浦入道の像を造って仁王像の傍に安置したという。
日伝は天文一二年西谷の麓坊に退蔵し、天文一七年一二月一一日麓坊にて入寂、寿六七歳。
身延在世二五年であった。
《『身延山略譜』、『身延山史』、『本化別頭仏祖統紀』、『日蓮教団全史』上、『日本仏教人名辞典』「日伝」の項》