日伝(唯本院・常楽坊)
日伝(唯本院・常楽坊)
にちでん
(一四二一-六三)
唯本院・常楽坊と号す。日昭門流。
その伝は詳らかではないが、教団の紛争を憂いて、康正二年(一四五六)上洛、三条猪熊本覚寺を宿坊として、本能寺・妙満寺等の勝劣諸師を歴訪し諫暁した。
著書に『本尊相伝抄』『妙法弘経本迹問答抄』がある。
前著は長禄元年(一四五七)弘経寺日位に与えたもので、真如日住の『本尊相伝事』、日山の『本尊五大口伝』、日海の『本尊相伝』等を集成したものである。
日昭門流の教学は関東にありながら台学擢であったとされ、法門は口伝によって相承されており、日伝以前は、成文としての教学の体系的叙述がなされていなかった。
従って本書は日昭門流における、口伝による本尊相伝を集大成したものであるともされる。
後著は宝徳二年(一四五〇)の作であるが、康正二年三月の上洛の折、真如院日住の校閲を得たと伝える。
当時は洛中(京都市中)を中心に、本迹勝劣義の紛争が続いていたため、日伝は妙顕寺具能の激励を受けるなど、一致派の諸寺からかなりの反響があったようである。
これについて久遠成院日親は『伝燈抄』の中で「叡山の戒壇を踏むのみならず、社参仏詣等の振舞、謗施以下の事称許すべからず。(略)」と批判を加えながらも「法華経宗なる處少し顕れき」と、その功を認めている。
日伝の本迹義は機情勝劣、法体一致論である。
これに対し日陣門流の侍従阿闍梨日現の『本迹問答高広義会釈』を始め、日什門流の慶陽院日悦の『本迹勝劣之事』等、勝劣各派はそれぞれ自門の立場を顕彰して対抗した。
このような一致・勝劣各派の論争のなかで寛正の盟約ははやくも空文化していったのである。
《執行海秀『日蓮宗教学史』》