富士門家中見聞
富士門家中見聞
ふじもんけちゅうけんもん
上中下三巻。
大石寺一八世日精(一六〇〇-八三)著。
『富要』五巻所収。
一般に『家中抄』といわれる。
日精は初め京都要法寺日瑤に従って勉学したが、のち富士に下って大石寺一六世日就につき、更に上総(千葉県)宮谷檀林に学んだ。
寛永一四年(一六三七)三七歳にして大石寺一八世をつぎ、諸堂塔を修理造営し中興の祖といわれる。
本書上巻は開山日興の行跡を記したものであるが、日精は巻末に日興の古来の諸伝を見るに日順の『血脉抄』は極めて簡略、日時の『三師伝』(日道の著という説も有力であったが、近時の研究では日時著説が有力である)はわずかに一、二をあげるのみ、日辰の『祖師伝』は多く西山の説により御筆に違うところがある。
よってこれらを集め、諸伝諸書を取捨してこの伝を記した。
時に寛文二年(一六六二)一二月一八日、江戸下谷常在寺に誌す、行年六三と伝記執筆の縁由を書き留めている。
中巻には本六人・新六人の伝をのべている。
日精は本六人をもって文保年中(一三一七)の選定と記しているが、永仁六年(一二九八)に日興が『本尊分与帳』を作製した時、日華、日目、日秀、日禅、日仙、日乗の順序で「この六人は日興の第一の弟子」と特筆しているから、いわゆる「本六人」は永仁六年に定められたものと見るべきであろう。
日興の晩年に及んで若徒の竜象をあげて再び六人を選んだがこれを「新六人」と呼んだ。
従って前の六人は「往古治定する所なるが故に本六人」と称したのである。
(『日順阿闍梨血脉』)。
これによって本六人の呼称は始めからあったのではなく、新たに六人が選定されてから出来た名称であることが知られよう。
中巻には本六人卿阿闍梨日目(蓮蔵房)、寂日房日華(二十家阿闍梨)、下野阿闍梨日秀(理境房)、少輔阿闍梨日禅、摂津公日仙、了性房日乗と新六人伊予阿闍梨日代、寂仙房日澄、弁公日道、式部公日妙、大窪日毫、大進公日助の伝がのせられている。
但し新六人の日毫伝を欠いている。
下巻には大夫阿闍梨日尊、宰相阿闍梨日印、本覚法印日大(以上日尊系)、宰相阿闍梨日郷、三位阿闍梨日順、和泉阿闍梨日法、越後阿闍梨日弁、岩本実相寺の事、日行(大石寺五世)、日時(同六世)、日影(同八世)、日有(同九世)、日鎮(同一二世)、日院(同一三世)、日主(同一四世)、日昌(同一五世)、日就(同一六世)、日盈(同一七世)の伝をあげ、また袈裟の制、頓写行、声明、過去帳・位牌を調うべき事、日待・月待を行うこと、引導・歎徳文を用意すること等が念記されている。
以上の諸師のうち日郷を新六人の一人として伝記を記した。
中巻に大窪日毫伝を欠いているが、日毫は日郷の借音であろう。
日法と日弁は『本尊分与帳』によれば日法は日弁の弟子で、日弁は元来日興の弟子であったが聖人滅後、弘安年中に日興に背いて離反し、日法も「越後房逆罪の時同時に背」いたと呵責されている人物である。
この二人が本書に取り上げられているのは不審であるが、日法は有名な彫刻の名手といわれ、大石寺の「板本尊」と富士門家で伝承している「生御影」と称する祖師像(三寸→三尺とも考えられる)を彫刻したという伝説があるので日弁・日法両師をあげたのであろう。
大石寺六世日時のあと、七世日阿の伝と一〇世日乗、一一世日底の所伝も不明で伝えるところがない。
『家中抄』は一七世日盈をもって終わっているので、そのあとの歴代の事跡を補ったものが『續家中抄』一巻である。
天保七年(一八三六)五月、大石寺四八世本寿院日量(久遠阿闍梨)は『家中抄』以後歴世の記録のないのを嘆き「闇昧不了を顧りみず、聊か管見寡聞の一途を述」べ後賢の補欠を俟って次の歴代の伝を著した。
(了玄)日精(一八世)、日舜(一九世)、(三玄)日典(二〇世)、日忍(二一世)、本法院(松園)日俊(二二世)、久本院日啓(二三世)、富士阿闍梨日永(二四世)、寿命院日宥(二五世)、堅樹院日寬(二六世)、広宣院日養(二七世)、守真院日詳(二八世)、妙堯院日東(二九世)、日忠(三〇世)、経道院日因(三一世)、本久院日教(三二世)、持宝院日元(三三世)、守要院日真(三四世)、遠妙院日隠(三五世)、樹真院日堅(三六世)、久成院日華(三七世)、堅持院日泰(三八世)、専光院日純(三九世)、要行院日任(四〇世)、孝善院日文(四一世)、要順院日厳(四二世)、尚道院日相(四三世)、真成院日富(四四世)、樹香院日礼(四五世)、持勝院日調(四六世)、浄明院日珠(四七世)、本寿院日量(四八世)、真妙院日荘(四九世)、本勝院日誠(五〇世)。
なお日量は嘉永四年(一八五一)五月二九日、八四歳をもって遷化した。