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妙見菩薩【教学】

みょうけんぼさつ #1615

妙見菩薩【教学】

みょうけんぼさつ

また尊星王・妙見尊星王・北辰妙見菩薩などという。
『七菩薩所説大陀羅尼神咒経』第二によれば、妙見菩薩は衆聖中の最勝であって、よく土を擁護し、また人の死を除き生を定め、福算を増益する尊星であると説かれている。
形像には二臂のものと四臂のものとがあり、二臂像は左手に蓮華を持ち蓮上に北斗七星があり、右手は大指頭指相捻じ、中指を少しまげて掌を外に向けて説法印を作り、宝冠を戴き、五色雲中に結跏趺坐している。
四臂像は赤白肉色で、慈怒形。
右の第一手に筆、第二手に月輪、左の第一手に紀籍、第二手に日輪を持ち、蛇走青竜の背に立ち、腰をややまげて地を視る相をしている。
また別に身が黄色で口を開き逆髪中に七蛇があり、右の第一手に筆、第二手に節刀、左の第一手に紀籍、第二手に金輪を持ち、黒雲中に趺坐している四臂像もあり、図像は多様である。
本宗の像は二臂で立像では岩上の青亀の上に立ち、白蛇が身を廻り総髪、二手で剣を地に立て、円光に代って七星を示したものが多く、坐像では剣を頭上に掲げた形(能勢型)が多い。
妙見尊星が北辰と呼ばれるのは北極星または北斗を象徴したものであるためで、これは『覚禅鈔』尊星王条、『妙見陀羅尼経』下に説かれる。
またわがでは平安時代以来、京都畿内に多く行われたが中世では千葉氏、大内氏、名和氏、相馬氏ら地方の豪族により多くは武家の守護神とされて帰依され、しかも中では昊天上帝と馬歩神とが同じく冬至に祭られたことから、これがわがでは混淆し土俗化し、一面には一族の守護神(軍神)として、また他面では馬の神として尊崇された。
このに妙見は更に大陸半島より流入したと推測される道鎮宅霊符神とも混淆習合して尊崇されたが、近世に入るや、各藩主の帰依と共に、多くの土着の大衆信仰するところとなり、各地方において、あるいは海上安全神、あるいは五穀豊穣神として帰依され、更には海上貿易を営む大商人の帰依を得たことによって、転じて商業神となり、また眼疾平癒の神、安産の神、子孫繁栄、良縁恵与の神となり、このための修法を妙見法、北辰法、尊星法などと称したが、更には「妙見」の語義が「麗妙なる容姿」と解せられて江戸・大坂の役者及び花街の婦女の尊信するところとなり、また檀林の守護神より転じて受験の神となるなど、あるときは儒教と習合し、ある時は神道と習合し、更には道教と習合して土俗化すると共に広汎な庶民大衆の尊信を集めて現在に至っている。
本宗においても古来諸寺に妙見を祭祀しており、記録としては下総中山三世日祐が肥後に西下し松尾山光勝寺を開創し、祇園寺を再興し、祇園川の辺りに別宇を新造して妙見を勧請した。
これは父の千葉胤貞が下総中山の妙見を信仰し、この父の協力寄進があったためであるという。
尊体は剣である。
更には康の室養珠院が下総香取飯高に建立した檀林の妙見、江戸時代中期に銚子に創建された妙福寺妙見堂など、房総・武蔵、江戸北郊に散在する妙見は概ね千葉氏の北斗山金剛授寺から更に勧請されたものが多い。
また大坂の西部、久々地の妙見安置の広済寺が日昌の主唱と同信の大衆の結講によって建立されたのは正徳四年(一七一四)一一月で、近松門左衛門との因縁も深い。
最も有名な能勢真如寺の妙見は、身延の寂照院日乾が霊験を被った由緒を伝え、寺伝によれば能勢妙見の奥の院の本尊は久々地のそれと同じく、鼻祖多田満仲が所持していた鎮宅霊符神であるというが、真如寺の尊像は日乾の創案になるもので、鎧を着、昔は刀を振りかざす姿であったが、後に受太刀の姿に改められ、左手に金剛を結んでいる。
能勢形として中世に多く見る姿である。
江戸中期より末期にかけて殷盛を極めた江戸柳島の妙見山法性寺は明応元年(一四九二)創建と伝えられ、京都寺町今出川の立本寺、堀川松原の本圀寺檀林求法院の妙見なども有名である。
《野村耀昌「妙見信仰の系譜と展開」『近代日本の法華仏教』、『日蓮辞典』『広説仏教語大辞典』『岩波仏教辞典』「妙見菩薩」の項、『国史大辞典』一三巻「妙見菩薩」「妙見信仰」の項

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