同座諷経
同座諷経
どうざふぎん
同じ席にて諷経すること。
なお自他宗の僧・俗が同座にて諷経することは、日蓮宗では当宗以外の人からの供養は受けず、他宗の僧には供養せず、また法華経以外の教経は受けないという不受不施の制による立場より、日蓮聖人以来、信仰の純正を守るために禁制された制法であるとする。
しかし当初この不受不施制は王侯除外、つまり中央にあっては高官大家、地方にあっては鎌倉公方、在地の守護など権力者を除外したもので、それ故これら権力者の営む作善、祈祷の際には公役として勤めたものと推測される。
例えば久遠成院日親(一四〇七-八八)の『伝燈抄』によれば、同座諷経を行っている事例が多くみられ、それらを糾弾するに及んでいる。
永享九年(一四三七)一〇月、足利持氏は鎌倉の杉本観音堂で天台宗の金剛宝戒寺心海を導師とし、万部会を修し、応永二三年(一四一六)末から始まった上杉禅秀の乱に戦没した敵味方の亡霊を弔った。この時、日蓮宗へは一〇〇〇部読誦の割当てがあったが、日蓮宗諸寺は同座諷経の禁制によって各山において諷経することを請い許された。
時に六条門流の妙法寺一門のみ三〇〇部を諷経し、鎌倉日蓮宗の指弾を受けている。
また永享一二年、日親は足利将軍義教に諫暁を行い捕えられ、獄中に囚禁、拷問迫害をうけたが、入牢中、義満将軍の三十三回忌が行われた。即ち各宗の僧を招じ千僧会が営まれたのであるが、本宗にも招請があり、京都諸寺は会合して招請に赴くか否かを議し、先年鎌倉の例にならったのであろうか、出仕御免を申出て許された。
この時、妙本寺、妙行寺等八ヵ寺は供養会に出席、その他の五〇余寺は出仕しなかった。
さらに武州品川妙国寺は什門の同地方の本拠であるが、その地の豪族で鈴木源三郎という大檀那があった。
ところが、源三郎の父道印、祖父道永には共に謗法の振舞が多く、自他宗の僧を招じて千僧会を営み、僧一人に青鳧一〇匹(一〇〇文)米一器ずつを布施した。
日尊門徒の住本寺でも、檀那である住吉神社の神主が天台・真言の僧を集め千部会を行った時、住本寺衆徒一〇人が出仕したという。
日親はこうした行為を同座諷経の禁制を犯すものとして、仮借することなく責めたが、先に記した足利持氏の催した万部会、将軍義教の営んだ千僧会には日蓮宗不出仕の行跡がみられる。
これらは王侯除外制から脱却する不受不施義の底流ともなった。
《宮崎英修『不受不施派の源流と展開』》