雲のゆき来
雲のゆき来
くものゆきき
長編小説。
作家・中村真一郎(一九一八-一九九七)の代表作の一つ。
昭和四〇年(一九六五)『展望』に連載、翌年筑摩書房より刊行。
物語の語り手であり作者自身でもある「私」が深草の元政の生涯や仕事に興味を持ち漢詩への考究を通して詩的体験を語っていく。
同時に国際的女優である混血の少女との交友と彼女の抱く愛憎の念や不幸な運命とを物語り「うまく作られた幸福」という観念の裏返しに「うまく作られた不幸」という観念があることを「私」の想像力によって示そうとした作品。
「私」は、元政の『草山絶句』を読み塵界を払い別世界に身をおく詩情に陶酔し『元元唱和集』によって「性霊」を尊び「模擬」を排した詩論にふれる。
そして元政は王朝時代の歌や物語から詩的体験を得ているのみならず、亡命の詩人陳元贇との出会いを経て明末の詩人袁中郎の詩論の影響をうけ清朝期の袁子才による新詩の運動に呼応する国際性を有し、しかも形式の束縛を受けない清新で独創的な詩の輝きを持っていることを発見する。
更に『草山集』を読み、感受性の独自さが表現されている近代的な意味での詩的映像を見てとり『元政上人身延紀行』巻末に収められる『草山和歌集』を通して「果して、元政上人は一流の漢詩人であるだけでなく、一流の歌人であった」という。
また『身延道の記』に至って和漢の教養を自在に活用している精神の働きを看取し「最も普遍的な教養のなかで生きている、ひとりの『世界人』の姿」を捉える。
「私」と元政との出会いはやがて、詩人から歌人へ、文学者から世界人へと次第に深入りしていく。
「私」は、元政の正面の肖像が「普遍的人間」であると想像する。
これに加えて、洒落と風雅とを兼ね読書癖を持ち病気を下僕とした元政の面影を知るに及んで「無垢の嬉しさ」に「私」は包まれる。
一方、「私」は混血の女優楊嬢と京都を訪れ、深草の瑞光寺山門をくぐり寂音堂、観音堂より元政の墓に詣で、元政が老父母に孝行をつくした養寿庵を経て宝塔寺に赴く。
「私」は往年の元政を想起し、また石井俊平といった頃の高尾大夫との悲恋物語を話し、元政の書いた『霞谷山人伝』が「小説家としての上人の想像力とユーモアの感覚の生んだ小傑作だろう」と考える。
楊嬢が父に対する憎悪に疑いを持ち新たな生き方を求め始めた矢先、彼女は飛行機事故によって不慮の死を遂げる。
「私」は彼女の生涯が「うまく作られた不幸」であったことに思いをはせながら、「私」はまた彼女と親との関係を通して元政の孝行の性質を追究する。
元政の出家の動機となった「救親」は、やがて父母との生活と宗教生活との一致を元政が喜びとする「省親」となる。
特に母子間の心の絆が強まるに従い元政の心は弾み、病子を病母が看病する苦しい時間も心の結びつきを一層深めるものであったと考える。
「上人の一生を回顧してみれば、結局、その生の最大の主題となるものは、“母への愛”であったのではなかろうか」。
その排他的で灼熱的な母への愛は「母コンプレックス」と規定しても誤りではない、俗情を超越した無我の境地とはおよそ反対の、元政の母に対する感情こそかえって懐しさを覚えさせてくれるのであり、その「深い執着、甘い慕情」、母に対する「嬰児ノ態」そして深草への隠棲は、精神的独立を獲得すべき高尾との恋に破局したことが「母への裏切りが罰せられた」という罪悪感となって印象づけられ「母コンプレックス」離脱の代りに再び自我が母に従属する幼時の平和に立ち戻った逃避の象徴的行為であった、と「私」は想像力による心理解釈をする。
このように元政を自己の意識の中に溶解させながら「敬愛する元政上人の肖像」を物語として表現している独特の作品として、この小説は一種の仏教文学の香りを有している。