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種子島開教

たねがしまかいきょう #4353

種子島開教

たねがしまかいきょう

九州南端の洋上に浮ぶ種子島へ法華教団が初めて開教を志したのは、寛正三年(一四六二)初春、法華宗僧定源院日典(一四〇一-六三)である。
それまでの島の宗教は、筑紫大宰府観世音寺にあった戒壇の関係から律宗のみであった。
名勝図会によると奈良興福寺の末寺の慈遠寺、大会寺など十数ヵ寺があげられ、島の上層階級の菩提寺として存在していた。
日典は応永八年(一四〇一)種子島西之表川迎に生れ、幼時同島律宗慈遠寺で出家、義賛林応と称した。
選ばれて本土の南都北嶺に遊学、その帰途浪速堺の津で便船を待っていた、尼崎本興寺日隆に折伏され本化の妙経に信順を誓い弟子となる。
日隆の学室(勧学院)に学ぶこと一〇数年、還暦を迎える頃になって、生れ故郷種子島への法華宗弘通の素願を達成しようと、寛正二年(一四六一)夏、尼崎を発ち翌三年帰島した。
予期どおり島の保守律宗と結び日典を迫害したが、遂に島主種子島時氏を始め徳永右衛門、山崎筑前盛遠など数十人を化した。
そして律宗徒らの怨嫉を受けながらも、一六歳の少年島主時氏の布令の下に一挙全島法華改宗にふみきる直前、それに反対する一部の暴徒の襲撃を受け、暴行の挙句に川迎長瀬の桟敷が丘の下の浜辺に引ずられ、ほられた穴の中に生身のまま投げこまれ、その上から石子詰めにされて殺害された。開教始祖は痛ましくも殉教したのである。
その場所は、今も日典が浜と称され供養塔が建てられて殉難をしのんでいる。
その浜の上の丘に根本山日典寺があり、そばに日典の石を納めた日典廟が数百年の風雨を経て保存されている。
島は日典の死によって再び律宗にもどっていった。
日典は種子島の出身であるから、その風土を熟知し、自分一人ぐらいの開教で布教が成功すると思っていなかった。また老齢であり開が成功するまで寿命が持たぬかもしれぬと考えていた。
そのため尼崎本興寺の学室で日隆から起用され教鞭をとっていた時、学生の中から特に秀れた淡路島出身の浄光院日良(一四三一-九五)を選び、種子島開教第二陣を依頼していたのである。
日良は日典を送り出してから四年近くたっても音信がないことを心配し、同六年日典との約束を守り島に渡っていった。
そして想像したとおりの痛ましい日典の殉教の話を聞き、島の風土になれるまで、都から来島した茶道の師匠と称し、城中の上層武士に近づき、島主時氏らの信用を得た。その頃、はからずも時氏は日良来島の目的を知り、日良も時氏が日典から化を受け、内心深く法華経を信じつつ今日に至っていることを知ったのである。
かつての少年島主氏は、島の行政面でも実力をもった青年島主となっていたから、日良に協力して同信の者を集め、法華宗への改宗を宣言し、積極的に日良の法華経宣布を助け、やがて全島の法華宗への改宗布令を発し宗教革命を断行したのである。
大半の島民は律宗を捨てたが、日典殉難の時と同じく、時氏の二叔慈遠寺秀恵と大会寺喜道は、残存の律宗徒と結んで日良の布教を妨害して止まなかった。
しかし強力な折伏弘通二〇年にして、二叔を残し全島法華の精華を挙げることができた。
日良は氏にすすめて、二叔化のため京都本能寺・尼崎本興寺両山兼職の日与に書を送らせ、公出身博学雄弁法力充満の金剛院日増の来島巡を請うたのである。
日増は長享元年(一四八七)数名の供と来島、慈遠寺秀恵を帰伏させ日恵と号させたが、島主氏と確執の強い大会寺喜道は中之村の律寺に引籠り、慈遠寺引渡しを拒み続けたのである。
日増は、種子島一島の布教のみならず種子島時氏の統治下にある屋久島へも開教、その法力によって屋久島一島を法華に改宗せしめ、口永良部島も風を慕って改宗したため、南海の三島は、種子島の開教に始まり二六年目にして如上の三師によって完全に法華宗の島となった。
薩摩藩がかくれ念仏徒やかくれ切支丹徒を捕えてこの島へ送ってきても、強固な法華信仰は微動だにもせず、かえって彼らを化するほどであった。
三師三島開の宗史はあまりに有名である。
《宮崎英修「種子島の開教日典が浜の殉難」『日蓮宗の人びと』》

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