日典(種子島・定源院)
日典(種子島・定源院)
にってん
(一四〇一-六三)
種子島西之表に生れる。
幼時西之表律宗慈遠寺で出家し義賛坊林応と称した。
選ばれて南都北嶺に遊学し七ヵ年を経た宝徳三年(一四五一)帰島するため浪速堺の津で船待ちをしていた。
当時尼崎本興寺にいた慶林坊日隆の教線は堺に伸張し、顕本寺が創立され弟子日浄に弘通がまかされていた。
林応は船待ちのつれづれに盲人大都と仏法を論じ、日浄と法論し、本興寺の日隆に帰伏し、律宗を捨てその弟子となり定源院日典と称した。
日隆の学室(勧学院)で学びやがて学頭に推された。
しかし日典は故郷種子島への法華弘通の念願を果したく、日隆の許しを得て寛正二年(一四六一)初夏の頃、尼崎を発ち翌年早春種子島に帰島。六二歳であった。
予想どおり律宗を国教のごとくする全島民からの迫害を受けたが、聖人の教条を守り忍難弘通につとめ、やがて徳永右衛門・山崎筑前盛遠などの信者と、一六歳ながら日向細島出身の一一代島主時氏の内信を得た。
しかし律宗は時氏の二叔慈遠寺秀恵・大会寺喜道らを擁し「改宗発願は日典なりと一統おもいつめたるにや、日を追うて日典を憎みそねむこと甚し」(種子島行事)くなり、日典を「一揆を企てる者」(前同)と暴徒を扇動し、その草庵を囲み乱暴狼籍のすえ川迎の長瀬桟敷ケ浜へ引ずって行き、穴をほり地下数尺の底に投げ込み、その上から浜の小石等を投げ入れて石子詰に殺害したのである。
時に寛正四年四月二一日、六三歳。
室町期の門下法難史上遠く離れた島に弘通のために鮮血を流した殉難日典の大法下種の勲功は、その後浄光日良・金剛日増らの弘法者を経て開華し、種子島・屋久島・沖永良部島の三島皆法華に連がり、その廟所日典寺に法勲をとどめている。
《松井孝純『南海の聖日典上人』、宮崎英修「種子島の開教日典が浜の殉難」『日蓮宗の人びと』、『日本仏教人名辞典』「日典」の項》