日進(修禅院)
日進(修禅院)
にっしん
(一五九一-一六六三)
修禅院と号す。
板倉備前守の子息として江戸に生まれる。
父は法号常円、母は妙円という。
碑文谷法華寺(東京都目黒区、現在天台宗円融寺となっている)一一世。
寛永三年(一六二六)九月、徳川二代将軍秀忠の夫人(浅井長政の女)崇源院の中陰追善のため各宗の僧侶は芝増上寺に諷経(ふぎん)(読経すること)せよとの命令が出た。身延山は出仕したが、日進は池上日樹、中山前住日賢、小西日領らと共に伊賀守の允許を証文として不受不施の古制を守って出仕を免れた。この時には不出仕者に対し幕府から何の咎めもなかった。
しかし不出仕者の日進・日樹・日賢等が身延日乾一派の出仕(信徒でない者に諷経しその供養を受けた)を謗法であると批判攻撃するに及んで、幕府も捨ておかず寛永七年二月、江戸城内に池上・身延の両派を呼び対決させた(身池対論)。
これは妙覚寺日奥以来の「王侯除外を認めぬ正統不受不施義」を主張する不受派の日樹・日進らと、国主は平民同様の対象に置くべきでないとする「王侯除外の不受不施義」を主張する受派の日乾・日遠・日暹らとの間の受不受の対論であった。
また同時に身延不浄無間論に起因する、関東の諸山(池上・碑文谷・中山)と身延との感情的分子の多く含まれる論争でもあった。
この身池対論は同年四月二日、幕府の権力に庇護された身延側の勝利と判定され、池上側七師は流罪・追放の罪科に処された。
日進は信州(長野県)上田に流され、在住三四年、寛文三年四月二二日、七三歳をもって入寂した。
遺弟の進盛日通は上田城主仙石政俊の外護によって日進の住庵法泉院を改めて妙光寺を創し、山号は日進の院号修禅院をもってし、日進を開山、政俊を開基と仰ぎ、自らは第二世に列した。
日進は配流とはいえ、城主の外護もあって、割合自由に宗教活動を行っていたといえる。信濃追分の中山道と北国街道の分去(わかされ)に、旅人の道中安全を祈る宝塔が日進の名のもとに建立されていることがそれを物語っている。日進の上田に配流された以後の花押の中には「出」の字が入れてある。
これは法華経勧持品に、末法において法華経を弘通する者は「数々(しばしば)擯出せらる」と説かれていることから、自身は聖人の如く色読したという自覚を持ち、花押の中へその「出」の字を入れたのであろう。
この正法の行者としての日進に対する信徒の崇敬の念はあつく、配流の後も江戸・上総その他の地の信徒が、日進を訪れ、日進も諸方に返書をしたためている。
寛永八年一〇月、江戸の信者が聖人の尊像(現在、北山本門寺片山日幹師蔵)を造って、配処を訪れ日進に奉げている。
妙光寺には、安藝国大守奥御殿が上田に配流された日進を励ますために出した書簡が残されている。
日進が信者に授与した曼荼羅は、現在上田市妙光寺・本陽寺、小諸市実大寺・尊立寺、諏訪市高国寺、千葉県夷隅町光福寺、東京都豊島区法明寺、佐世保市延寿寺、北山本門寺等、諸方に伝えられている。
なお「日進聖人像」(妙光寺二世日通の造立であろう)は上田妙光寺に安置されている。