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日進(三位公・大進阿闍梨)

にっしん #3119

日進(三位公・大進阿闍梨)

にっしん

(一二七一-一三三四)
身延山三世・中老僧の一人。
日心・日真・日進と順次に改める。
文永八年下総東葛飾郡(現・柏市)に曽谷次郎兵衛尉信の二男に生る。
日蓮聖人の門下に入り直接には佐渡日向に師した。
建治年(一二七五-七八)に伯父の大進阿闍梨が寂するや、その号であった大進公・大進院・三位公・大進阿闍梨をそのまま襲号した。(大進示寂は一説によっている。実には弘安元年のごとし)
正和二年(一三一三)身延二世佐渡日向が下総茂原に退くや日進はその嘱をうけて身延三世に晋んだ。
身延山略譜』には「正和二年入山、在位十七或ハ十八年、支院竹之坊三世、駿州柚野(竹養山)正法寺開山」と見える。
元徳元年(一三二九)三月八日生の下総に妙蓮寺を創して悲母の追善に資した。
若年の頃より京都にあって宗義の研鑽に励み、身延入山後一二年寿五五歳にして上洛して聖教の書写をなし、或は上総と下総に遊化して線の拡大に努めるなど、研学精進がうかがえる。
京都で書写したと奥書する『立正観抄』が身延に現存している。 殊に中山法華経寺の日祐と親交を結んだことは有名である。
その日祐著『一期所修善根記録』によれば、日進代に久遠寺の御塔頭・鐘楼・塔頭奉祀板本尊等の造営がされたという。日祐の『一期所修善根記録』に見える「御塔頭」というのは、聖人の舎利を奉安した場所と建物のことである。つまり「お墓所の建物」(塔の頭(ほとり)に構えた房舎)の意味であって、いわゆる「支院」の意に用いられる塔頭のことではない。従って『一期所修善根記録』のいう御塔頭とは、聖人の廟墓とは別に真骨を奉安した堂(塔頭)が新造されたことを指している。
さて身延一一世行学日朝の弟子、日海の記録『日海記』によると、明応七年(一四九八)八月大地震と山津波のために久遠寺の堂塔は甚大な被害をうけたが、とくに『日海記』の中に「日朝聖人建立之御塔頽落」と記している。この御塔とは日進代に造営した御塔頭を更に日朝が建造したものである。
日進は在位一七年、寿七六歳で示寂したというが、その寂年代については決め難いものがある。
本化別頭仏祖統紀』には「建武元年甲戊の冬別頭傳授の法門を法弟日善に完付す、十二月八日疾を示して化す寿七十六」とあり、身延西谷の碑には「元徳二年庚午寂」と刻銘されている。
建武元年(一三三四)説と、元徳二年(一三三〇)説とでは五ヵ年の差違がみられる。
日進の著述を集めたものに『三佛法盛衰之』『破浄土義論法華正義』『日本佛法弘通次第』『日蓮聖人御弘通次第』『三国佛法見聞』『金綱集見聞』『破邪立正』等がある。
題名は後人が内容によって付したもの。
いずれも久遠寺宝蔵に収められている。
《『本化別頭仏祖統紀』、『日蓮教団全史』上、『御書略註』(『宗全』一八巻)、『身延山史』、『身延山略譜』、宮崎英修『不受不施派の源流と展開』、『遺文辞典』歴史篇「日進」の項、『日蓮辞典』『昭和新修』別巻「大進阿闍梨」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人の門弟」の項、『日本仏教人名辞典』「日進」の項、『史大辞典』一一巻「日進」の項》

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