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日豊(鷲峰院・僧那院)

にっぽう #3080

日豊(鷲峰院・僧那院)

にっぽう

(一六〇〇-六九) 字は唯遠、鷲峰院・僧那院と号す。
慶長五年八月一一日能登(石川県)七尾に生れた。
俗姓は大河原氏。
加賀の蓮昌寺にて出家
のち京都妙顕寺日饒について台を学び、飯高檀林に遊んで禅那日忠の席に列した。
のち中村檀林に玄義を講じ、身延西谷檀林に招かれて第六世化主、更に中村檀林第七世化主。
寛永二一年(一六四四)日饒の後を襲って京都妙顕寺一四世に晋み、日奥の『禁断謗施論』の論駁書である『笑禁断謗施論』を著して不受不施義を批判した。
また深草の元政が入門して、日豊はその器を愛してよく学・行軌の枢要を授けた。
明暦元年(一六五五)には身池対論以来、受不施派の支配に帰していた池上本門寺に晋んで一九世となった。
しかし当末寺の中には依然として不受不施の姿勢をくずさない寺が多数含まれており、そうした末寺本寺に違背し、本門寺から離れていくものが続出していた。
そこで日豊は、受不施派の総帥である身延山と協力し、幕府に繰返して訴状を呈し、受不施が正統であり、不受不施は異端であると訴えつづけたのである。
こうした努力が功を奏し、寛文五年(一六五六)幕府は寺領供養として与えるから受取りの証文を出せと申し渡した。
これにより謗法の人からの供養は受けないという不受の義は成立たなくなったのである。
更に幕府は証文を出さぬ諸寺の寺請を停止する旨を重ねて申渡した。
寺請ができないということは寺檀共に無籍となり当の社会から疎外されてしまうことを意味する。
証文の提出を拒否した人々は流に処せられ、以後不受派は地下潜行を余儀なくされるようになっていった。
こうして日豊等の努力により日蓮団は受派一色でおおわれ、末寺等は本寺に復帰していったのである。
日豊は寛文八年、あとを寂遠日通にして京都に帰り、翌九年六月一五日、七〇歳をもって寂した。
《宮崎英修『日蓮宗の人びと』、同『続・日蓮宗の人びと』、『日本仏人名辞典』「日豊」の項》

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