日英(本覚院)
日英(本覚院)
にちえい
(一五八四-一六四七)
字は英琳、本覚院と号す。京都立本寺一六世。
天正一八年(一五九〇)七歳の時、妙覚寺日典の室に入って出家したが、法兄の日奥に師事してその薫陶を受けた。
南都喜多院の宝慶に唯識・律を学び、立本寺に住したが、鳴滝三宝寺中正日護(一五八〇-一六四九)の道風を慕って師資の約をむすび、日護隠棲の後を受けて第二世となり鳴滝に住した。
日英は道徳実行、博学高才なること天下絶倫にして名を宗門に振う。
身を持すること極めて厳粛で、法華読誦修懺三昧に入り、信施をも怖ること獄王の如くであったといわれる。三衣一鉢、過中不食、修懺読誦、進趣力を得、髣髴と所顕あって六根を浄くすと。
しかし他に対してはこれを強要せず、極めて寛容、謙徳を護り、ここにおいて宗派意識にとらわれず、各宗の僧俗と交わり、かつ脱宗者として指弾された了性とも相提携して、戒律の復興に協力を惜しまなかった。
即ち鳴滝一派はその信を摂受によって顕現しようとしたものである。
殊に深草の元政、弟子日燈は常に日英を尊崇して「我が宗の持戒修懺の第一祖なり」と称している。
飯高の玄高は遙かに日英の名声を聞いて、わざわざ鳴滝に来って、大師帖釈の大旨を問うた。
日英が言うのに「我年来、明を失して、学問を廃絶してから久しい。あなたが試みにこれを誦せよ」と、玄高は大師妙楽を暗誦すること世間の智慧のある児が論語を誦するようであった。
日英が言うには「私志記はどうであろうか」と、玄高はまた誦す。「師曰く、道暹智度日本の宝地はどうであろうか」。
玄高は半ば誦し半ば渋る。「師曰く、暗誦は融せ不ずば、一義を成し難い。あなたは夙に備えがあるか。努力が珍重である。私は予て昔、講場に在って、暗誦を専らにす。暗誦に習熟してこそ後に工夫困案して、ようやく一義を得るのである」と。「私は今老いたりと雖も、少しは余残ある故に子それ、之を聞け、大師妙楽末師また傍出の書に至るまで、弁舌さわやかで滞ることなく飛屑綿々たり。玄高大に漸愧を懐じて、感謝して去った」。
また次のような逸話がある。
日英が身延山へ参詣した途次、飯高へやって来たが、講主である禅那日忠は門戸を閉ざして出ず、面会しないで帰ってしまった。
後にみんなが、この事を日忠に言うと「自分を英師と比較すると、数段の違いがある。竜門の講主もたちまちのうちに凡魚に堕してしまう。怖るべし、怖るべし。」時の竜象でさえ、憚るところ是の如くであったという。
なお草山の慧明日燈には『本覚院日英伝』があるが「我宗にもし英公なくば、三昧の名聴くべからず」と讃えている。
《宮崎英修「中正院日護上人と文守一絲禅師」『波木井南部氏事蹟考』、同『続・日蓮宗の人びと』、『日本仏教人名辞典』「日英」の項》