日珠(本妙院)
日珠(本妙院)
にっしゅ
(一七六三-一八一七)
諱は日珠、字は了本、本妙院と号す。不受不施派。金川妙覚寺(岡山県御津町)三三世。
父は岡山藩士井上隆安といい、二〇〇石の藩医で、母は安藤氏という。
宝暦一三年(一七六三)赤坂郡斗有村(岡山県山陽町)に生れ、幼くして深解院日範(真善庵主)の下に出家し才智を愛せられたが、のち普応院日恩(本妙庵五世)に師事し学を修めた。
天明三年(一七八三)春、日珠二一歳の時、応智院日縁(金川妙覚寺三二世)より大樹庵を譲られ、爾来同派の与望を担って行学に励み、藩吏の目を忍びつつ教化活動に従った。
越えて寛政五年(一七九三)の春、弟子蓮成院日得(牢死)と法立の浄教(俗名を松井吉兵衛という、牢死)を伴って江戸に下り、二月二九日寺社奉行脇坂淡路守安薫に対し『法葦真正行』一軸を呈し、出訴諫暁した。
その取調べおよび牢内の有様は『後諫手引草』に委細に記されているが、その結果は三宅島へ流罪と決定した。
時に日珠三一歳であった。
日珠は配所にあっても内地僧俗の指導・教誠・勧信に努め、島にあっても多くの帰敬者を得、御蔵島の流僧日縁(日珠の師)とも文通し、後には同島へ度々赴いて交際している。
これ日珠のみ可能なことであったという。
寛政八年一二月六日『天下安全抄』三巻を著し、再び諫暁しようとしたが、手違いのため志を達することができなかった。
当時の不受不施派は打ち続く弾圧に法中は減少し、組織は紛乱し、教団は危機に瀕していたのであるが、日珠の人格と信念による指導・教誡はよく難関を突破し、活力を与えた。
後年不受不施派再興法主と仰がれる釈日正は、日珠をもって「宗門中興、名師、末法無双の導師」と絶讃している。
文化一四年一二月一五日伊ケ谷の草庵で入寂。
世寿五五歳。
著述は上述の他に『済群師資録』『内信規矩細答』『適時信規論』三巻などがあり、歌集および清規類がある。
また消息・曼荼羅等多くの自筆が金川妙覚寺に格護されている。
日珠の特筆すべき活動は、配所の三宅島から本土の僧俗に対する教誡・指導が極めて懇切かつ厳格で、数多くの書状をもって、学問、布教の研究、そしてその実行を督励している点にある。
特に打ち続く法難に僧の数も少なく、法式・学業も低下し、諫暁も形式的となって、折角の出訴に答弁に戸迷うような羽目に遭うこともできないかと憂える時、日珠の行動は不受不施派にとって一種のカンフル剤となった。
具体例を『日珠式目』に見ると、僧の階級についても従来の乱れた点を改め、中央組織と地方組織に区分して、中央は一老・二老・三老・中座・惣席・小僧の六階、一老を法灯(法頭)とし、地方は二老(地方法灯職)以下の五階とした。
そして学問・布教に顕著な進歩を示すものには越階制を設けて、行・学振興にはげみになるようにした。
更にこの越階は法頭職が定めるが、上位の方は日珠自ら行った。
また牢死したり流罪になっても、それが諫暁によるか、ただ捕えられるかによって、その位に上下がある。
諫暁して配所に没する人は聖人位、牢死の人は大徳位という僧の位が贈られたり、地方法灯職(二老)の長老であっても、若年の者が入獄・配所されればその者よりも下位につくのである。
このような一例を見ても、死身弘法の行動がいかに重視されていたかがわかる。
次に流罪五年目の寛政一〇年(一七九八)三月の書状を見ると、
(1)病身では牢獄の生活は凌ぎ難い、十中八九は牢死を覚悟せよ。
(2)臆病の念があっては大願は成就しない。
吟味は苛酷である。
(3)問答は少々心得ておかねば失敗して諫暁の功を失う。
(4)常々三宝諸天の冥護を祈念せよ。
(5)流罪・死罪ともに感謝の念を以て受けよ。
とあるように、不受僧の最大の目的は、幕府に諫暁して、法華正義を主張し、合せて不受不施公許を請うにあるから、そのためには身体を鍛え、学問に精励し、不惜身命の精神に徹せよ、と述べている。
《宮崎英修『法華の殉教者たち』、同『日蓮宗徒群像』、『宗全』二一巻》