妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日玄(妙悟院)

にちげん #2814

日玄(妙悟院)

にちげん

(一六三四-一七〇四)
字は顗卓、妙悟院と号す。
池上・比企両山二二世、寛永一一年、江戸の大久保氏の三男として武柄に生れた。
谷中瑞輪寺の慈眼院日遼の門に入り出家得度し、その後寿量院日祐に師事して飯高檀林に学び、三〇年余の学をつみ、推されて化主となり、次いで真山弘法寺に晋董する。
寛文元年(一六六一)に身延日奠、池上日豊、谷中日体らと不受不施派を寺社奉行に訴え、いわゆる寛文の惣滅とよばれる同六年の大弾圧を引き起した受派の一方の頭目でもある。
延宝元年(一六七三)の夏、屈請されて両山の法灯を継承、ときに四一歳であった。
貞享元年(一六八四)には境内に七面堂を建立、火ぶせの鎮護とした。
引き続いて元禄三年(一六九〇)頃まで、火災頻発に備えて山内塔頭支院の配置がえを行い、本妙院や覚源院などを現在地に移した。このとき現存の総門が建立され、正面の石段が改修されたという。
特筆すべきは池上南谷檀林を新設したことで、照栄院をその地と定め、貞享-元禄のに着々と準備した。
鎌倉比企谷にあった宝篋堂檀林を移した格式で開講、本門寺の付属育設備として面目をほどこした。
一般には元禄二年創建と伝えられるが、照栄院蔵の堂の棟札に、日玄が自筆で元禄元年に二世日貞にこの棟札を与えたと記しているから、開創はそれ以前とすべきであろう。
とにかくこの檀林本門寺の僧侶教育機関として、小規模ながら格式をほこり、明治初年の学制改革まで存続する。
元禄一五年の秋に幕府の資助で五重塔の大修を行い、翌年の夏に至って完成した。
しかしもなく、五体不自由となり、宝永元年七月三日、七五歳をもって示寂した。
在山三一年におよび、本門寺が最も整備されたのはこの代である。
《『本化別頭仏祖統紀』、『新編武蔵風土記稿』、『照栄院文書』、『池上本門寺史管見』、『日本仏人名辞典』「日玄」の項

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