日典(実成院)
日典(実成院)
にちでん
(一五二八-九二)
備前野々口村(岡山県)の出身で備前の土豪松田氏の被官大村氏一門という。
号は実成院、茂原妙光寺一三世、塚原根本寺八世、京都妙覚寺一八世を歴任。
一般には不受不施派開祖日奥の師匠として知られる。
日典は一〇歳にて妙覚寺に入り、一四歳で得度し妙覚寺末の備前金川の道林寺か妙国寺の僧となったとされ、一七歳の時に関東に下向し諸山で遊学したとされるが史料的には確証を得ない。
だが永禄六年(一五六三)三六歳の折に茂原妙光寺の第一三世に就任している。
茂原妙光寺は身延門流の有力本寺で、東身延と呼称される。
身延山久遠寺とは両寺一山的な関係によって維持された有力寺院であった。
この点から日典は主に身延山久遠寺を拠点に遊学するうちに頭角を表わし妙光寺の貫首に選出されたのであろう。
永禄九年には京都妙覚寺に帰り一八世を継承している。
妙覚寺一八世に就任した日典は七堂伽藍の整備、および聖教類の収集に尽力し、また関東下向の折りに学んだ関東教学の伝統的折伏主義、祖書中心主義をもって子弟の育成を計り勢力を拡大した。
後世の史料ではあるが妙覚寺本院の周辺には百坊余りの堂社が建ち並んでいたと伝えていることからもそのことが窺われる。
これに対して京都市中における法華宗の諸勢力は、天台宗を中心に広学多聞の開会思想にたち、寛容的な摂受主義をとり、可能な限り法華宗以外の他宗派との強調を主張していた勢力が主流を占め始めていた。
その代表は仏心院日珖、常光院日諦、一如院日重、通王院日裕、蓮重院日尊らである。
当然のことながら、彼らは伝統的な祖事中心の折伏主義を唱える妙覚寺日典とは教線伸張の在り方において基本的に受け入れ難く、双方悪口雑言の反目が続いていたことが知られる。
この反目は天正七年(一五七九)の安土宗論以後、法華宗教団の在り方において対立が激化していったと考えられる。
安土宗論以後は寛容的な摂受主義が大勢を占めるなかで、日典はかたくなに祖書中心の折伏主義を唱え、子弟の育成にはげみながら妙覚寺勢伸張に尽力し、天正一五―六年には越後(新潟県)上杉氏の重臣直江山城守の帰依を得て、日蓮聖人ゆかりの佐渡に教線を延ばしている。塚原根本寺をその勢力下においている。
後に不受不施論争にからまり根本寺・妙覚寺と本未論争を起すこととなる。
また、このころには育成してきた弟子の一人である安国坊日奥が頭角を現しており、天正一六年一〇月五日に日典は日奥に正嫡譲位のことを伝えたとされ、同二〇年七月二一日に妙覚寺を日奥に譲っている。四日後に日典は没している。
日典が自己の後継者として日奥を選び正嫡譲位を伝えた折りに、自分の死後に、教学上の理解の相違からくる教団の在り方をめぐって、日奥に批難が集中し、日奥が孤立化することを予想したように、日典の教学を忠実に継承し発展させた日奥はついに文禄四年(一五九五)の大仏千僧供養出座をめぐり一如院日重らと対立が表面化している。
いわゆる不受不施論争である。
このようにみてくると、近世の法華宗教団史の主要部分を占めた不受不施の問題について開祖の日奥は勿論のこと、師匠たる日典の先駆的役割について全面的に再検討を試みる必要がある人物なのである。
《宮崎英修『不受不施派の源流と展開』、同『続・日蓮宗の人びと』、『日蓮教団全史』上、影山堯雄『日蓮教団史概説』、富田海音『塚原誌』、田中圭一『日蓮と佐渡』、坂本勝成「京都妙覚寺本末考」『近世法華仏教の展開』、『日本仏教人名辞典』「日典」の項》