大田氏・太田氏
大田氏・太田氏
おおたし
清和源氏頼光流の家柄で、家祖広綱は源三位頼政の実子、伊豆守仲綱の養子となり、頼朝に仕え、のち京都上醍醐に住したという。
その子隆綱は幼時より禁中に仕え、丹波五ヵ庄を知行地とした。
隆綱の孫資国が丹波の太田郷に住し、初めて太田を称したが、文永年間(一二六四-七五)に相模国に移り、以後曽孫資房に至る四代は相模に住した。
この太田氏を日蓮聖人直檀の大田乗明と同系とする説もあるが、おそらく付会の説であろう。
資房以後の略系譜を示すと左の通りである。
資房-資清(源六郎・左衛門大夫・備中守・道真、明応元年=一四九二=没、八二歳)-資長(初持資・鶴千代麿・源六郎・左衛門大夫・備中守・道灌、文明一八年=-一四八六=没、五五歳)-資康(源六郎・六郎左衛門尉・法恩斎、永正一〇年=-一五一三=没)-資高(源六郎・六郎左衛門・大和守・萬好斎、天文一六年=-一五四七=没)-康資(源六郎・新六郎・武菴、天正九年=-一五八一=没、五一歳)-重正(初資綱・新六郎、慶長一五年=-一六一〇=没、五〇歳)-資宗(初康資・新六郎・摂津守・采女正・備中守・道顕、延宝八年=-一六八〇=没、八一歳)-(以下略)-。
資清は関東管領の扇谷上杉持朝に仕え、その執事となり扇谷四天王の一人に挙げられる。
しかし没後「武州比企郡竜ケ谷村」(現・埼玉県入間郡越生町)の竜穏寺(曹洞宗)に葬られているから、本宗との関係はなかったらしい。
その子資長は文武両道の名将として名高く、上杉氏の家宰(執事)として活躍、江戸城を築いた持資入道道灌のことである。
彼も没後相州大住郡上糟屋村の洞昌院(曹洞宗)の後山に葬られたから、本宗との信仰関係はなかったと思われる。
だが江戸城中に三十番神堂を建てて鎮守としたと伝えられ、この堂がのちに谷中本行寺に移建されたというから、これが事実だとすれば本宗と無関係とは言いきれない。
太田氏が本宗と明らかに信仰関係を結ぶのは、道灌の子資康と、その弟日遵の代に至ってからであろう。
資康は文明一八年に父道灌が上杉定政に殺害されると、江戸城を去り、定政に叛いて山内の上杉顕定に属した。
永正一〇年九月、相州三浦の合戦で戦死、その地の大明寺(横須賀市衣笠栄町)に葬られた。
法号は法恩斎道源日慧居士という。
日遵は京都本国寺一二世日了の門に入り、師跡を継承して同寺の一三世となり、大僧都の位にのぼった。
在住一四年、大永元年(一五二一)に没している。
資高は武州豊嶋郡岩淵の砦に住み、北条氏綱に属して大永四年に上杉朝興のこもる江戸城をぬいて、北条氏の関東制覇に寄与した。
のち江戸城の秀月亭に移り、翌年が父法恩斎の十三回忌に当るので、その菩提を弔うため、同年江戸城下平河口に精舎を建て、平河山法恩寺(現在は墨田区大平にある)と称し、三浦大明寺の日瑞を開山に迎え、大田(太田)一族の霊牌所としたという。
康資は北条氏康の家臣で、江戸周辺に多くの知行地をもつ有力武将であったが、江戸城主になれない不満から、岩槻の太田三楽斎資正と呼応して、永禄六年(一五六二)の冬に氏康を討つ計画をたてた。
法恩寺の番神堂に家臣二一人を集めて計画をねったが、法恩寺の日匠がこれを聞いて驚き、江戸城代の遠山直景に通報した。
一方、本行寺日玄は、このことを康資に告げ、康資は安房国に逃れ、里見義弘に属することになった。
天正九年に安房(『本土寺過去帳』は上総小田喜-大多喜とする)で没したので、小湊誕生寺に葬られた。
法号は武菴日高居士。
重正は父康資の没後、常陸の佐竹義重に属したが、家康が江戸に入府すると道灌以来の名門として召し出され、武州豊嶋郡蓮沼に五〇〇石の知行地を賜った。
妹の英勝院が家康の側室となり、熱心な法華信者で伊豆の田方郡加殿村にある妙法華寺(のちに同郡玉沢に移る)に信仰を寄せていたので、重正は没後ここに葬られた。
法号は覚林院日宗居士。
その子資宗は英勝院の養子として育てられ、幼時から家康に近侍した。
下総国山川一万五〇〇〇石、三河国西尾三万五〇〇〇石を経て遠江国浜松掛川藩主となる。
法号は瑞華院道顕日応居士。
玉沢の妙法華寺に葬られ、以後当寺が当家代々の葬地となった。
《『本化別頭仏祖統紀』、『寛政重修諸家譜』、『遺文辞典』歴史篇「大田金吾」「大田次郎兵衛」の項、『日蓮辞典』「大田氏」の項》