鹿児島・宮崎・沖縄・三県開教
鹿児島・宮崎・沖縄・三県開教
かごしま・みやざき・おきなわ・さんけんかいきょう
昭和二年(一九二七)に三県を開教地名目をもって布教したこと。
鹿児島・宮崎両県における日蓮宗布教の歴史はふるく、日蓮聖人滅(弘安五年=一二八二)後約四〇年にして始まった。
薩摩阿闍梨日睿(一三〇九-七一)は宮崎に教線を伸ばし、定源院日典(種子島日典とも別称する。
=一三九九-一四六三)は鹿児島・種子島に布教した。
その後九州の各地には久遠成院日親(一四〇七-八八)・加藤清正(一五六二-一六一一)らによって日蓮宗の教線は飛躍的に拡大した。
しかし明治維新の廃仏の嵐は日蓮宗寺院のほとんどを壊滅させた。
特に鹿児島・宮崎の両県は倒幕の中心的役割を演じた藩であったこともあって、廃仏毀釈の波は他県には類をみないものがあった。
これ以降寺院の再建がないまま昭和二年を迎えることとなった。
同年の第二一宗会における、宗会議員堀智珠の「鹿児島・宮崎・沖縄の三県には本宗寺院としては鹿児島の教王寺を除く外殆どなし、然るに之れは去る一五宗会の時にこの地方を開教地とする名目を除けたるため、爾来布教上困難少からず。
先般来浅野常瑞師が寺院を建立せんとして文部省に意見書を提出せるに、彼の地が若し開教地となるならば考慮するも、然らざらば許可せず、そのことにて本人も大いに困り、また信徒教化事業にも関係すること大なれば、この際己前の如く彼の三県をして開教地の名目を入れられんことを切望す」との提案により、宗会議員全員の賛成を得て可決された。
なお昭和二年第二一宗会で、鹿児島・宮崎・沖縄三県を開教地と定めてから、現在に至るまで沖縄県における布教活動を沖縄開教と称している。
沖縄県における本宗布教拠点としては、那覇市壺屋に妙徳寺(住職新垣顕宜、前住職新垣宜恒)、浦添市城間(グスクマ)に日蓮宗沖縄布教所(主任鹿糠堯順)を有している。
妙徳寺は本宗沖縄開教の濫觴とされ、大正二年(一九一三)、鹿児島県教王寺住職浅野常瑞の布教に始まり、次いで渡島の財部日迦(当時は竹井貞純)の努力により信徒が集まり、模合(モアイ)を起し、那覇市松尾(当時は真和志村古波蔵松尾石川後原二一七)に六八四坪の土地を購入し、建物は尚(シヨウ)家の別荘浜の御殿を買って一六坪の本堂を建立した。
昭和二年寺号公称なり瑞国山妙徳寺と称し、山号を浅野常瑞の「瑞」、信徒総代並川国子の「国」により端国山とし、寺号を信徒総代古城徳三郎の「徳」をとり、「妙徳寺」と定めた。
住職は竹井貞純、西森某、小山恵大と継承したが、第二次世界大戦により悉く烏有に帰し、終戦後、旧境内地の土地問題も解決できず、昭和二五年に新垣宜恒が現在の那覇市壺屋に一五坪の寺院を建設。昭和四七年(一九七二)五月一五日沖縄県の日本国復帰に伴い、日蓮宗妙徳寺の認承を得て現在に至っている。
浦添市城間の日蓮宗沖縄布教所の経緯については、昭和三五年沖縄戦戦没者慰霊行脚のため吉田顕静、糸久宝詮、小泉宣哲の三名が渡島したことにより、壺屋の妙徳寺との交流がなされ、戦後の沖縄布教の重要性が認識され、数次に亘る沖縄布教調査、視察、慰霊団派遣がなされ、昭和四七年の沖縄復帰と共に本格的対策が打出され、昭和四九年第三二宗会において「沖縄布教拠点設置特別委員会」を設置。
昭和五〇年第三四宗会にはそれを「沖縄布教振興委員会」として制定し、昭和五一年第三五宗会において、日蓮聖人第七〇〇遠忌報恩奉行の事業として、沖縄布教所建設が議決され六〇〇〇万円の予算を得て、同年浦添市城間に八七坪の土地二四坪の家屋を購入し、鹿糠堯順を主任として派遣した。
昭和五三年布教所信徒具志堅光雄家より那覇市安里三二二番地の土地五〇〇坪の寄進を受け昭和五四年八月宅地造成工事を完了、翌五五年一月、本堂二階建六五坪、庫裡三〇坪、納骨堂三〇坪を建設した。
なお予算はその後四〇〇〇万円増額され、一億円の予算である。
現在沖縄に対する布教活動の主たるものは、毎年加行所を成満する修法師を派遣して沖縄の海開きの祈願祭として行う「浜降(ハマウリ)平和祈願祭」がある。
それは鹿糠堯順、当時副伝師であった永村経信ら多くの修法師の努力によって沖縄の旧三月三日の祭り“浜降りの日”によせて、沖縄に定着した布教行事となっている。
三県における寺院数(大正九年、昭和三年、昭和五四年の順)は次の通り。
鹿児島(寺一・教会一、寺一・教会一、寺三)。
宮崎(寺一・教会五、寺一・教会九、寺一四・結社一)。
沖縄(ナシ、妙徳寺、寺一・布教所一・教会一)。
以上は各元号における「日蓮宗寺院教会結社名簿」による。