験士の心得
験士の心得
げんしのこころえ
験士の心得とは諸仏、菩薩、諸天善神が行者を守護する事を確信して、上求菩提下化衆生に精進するにある。
『祈祷鈔』に「げに仏前にして誓しが如く、法華経の御ためには名をも身命をも惜まざりけりと思はれまいらせんとこそおぼすらめ」(定六七九頁)と。
そして「一切衆生の同一の苦は悉く是れ日蓮一人の苦」(定一八四七頁)と、謗法堕獄の一切衆生の大苦を一身に荷って懺悔滅罪に徹せられた日蓮聖人に続いて、験士は慈信あって聖戒を守るをもってその器とする。
その上に学芸、礼節を練磨し、常識を豊かに持たねばならぬ。
故に活命のために加持祈祷するのではなく、弘化布教の一部として行ずる。
また験士の水火の苦行を修するのは信念を堅固にするための方便であるが、これを外道の苦行と並べて譏謗する人がある。
これは道心の薄い怠惰な僧が、外道の苦行、邪見の語をもって、修法師を悪口罵詈して自己を弁護し、慰めんとし、その上に他の人の奉行までも毀謗して、その行を廃止させるまでに至る。
この人は悪魔波旬の所託というべきである。
しかしこれらの批判は、修法師として昼夜常精進しているならば、頂門の一針として謙虚に内省の資として受入れねばならぬ。
「行学たへなば仏法はあるべからず我もいたし人をも教化候へ行学は信心よりをこるべく候」(『諸法実相鈔』定七二九頁)と示されるように、信によって行学が起り、行学によって信が更に増進して、「我は是世尊の使なり衆に處するに畏るる所無し、我當に善く法を説くべし願くは佛安穏に住し給へ」(勧持品)、「されば我弟子等心みに法華経のごとく身命をおしまず修行して此度佛法を心みよ」の厳誡を、三思三省し、実践窮行あるのみである。