仏教連合会
仏教連合会
ぶっきょうれんごうかい
仏連の通称をもつ仏教連合会は、大正元年(一九一二)設置された仏教各派懇話会がその前身である。
大正五年に至り、明治以来多年の懸案であった宗教法制定の問題を始めその他政教関係の重要問題の解決を政府に強力に要請するため、その名称を「仏教聯合会」と改めた。
問題の一つは太政官布達以来確固たる定めのない宗教法即ち「宗教法案」(これが後の宗教団体法)の制定達成運動である。
その他の主なものは神道教師と神職との区別の明確化、国有境内地の還付運動、更に俗に治警五・三撒廃運動といわれている参政権問題の解決などであった。
こうした重大な共通の問題をかかえていたので、その解決を協議促進するため、各宗管長、宗務要職者は親睦を深め、本部を東京に置き、支部を各府県に設置した。
本部は各宗派に割振られた一二人の幹事によって会務の一切が行われ、評議員は各派一人ずつとし、予算の決定等を行った。
幹事の振合いは、天台三派で一、古義真言六派で一、智山派一、豊山派一、臨済一四派で一、曹洞一、浄土一、本願寺派一、大谷派一、高田・仏光等八派で一、律宗・時宗九派で一、日蓮宗・顕本法華宗・本門法華宗・日蓮正宗・日蓮宗不受不施派・同不受不施講門派等の九派で一の計一二人であった。
経費は管長割一〇分の二、寺数割一〇分の八で負担した。
この設立に尽力した人々に曹洞の上野舜頴、西の後藤環爾、浄土の里見達雄等が挙げられるが日蓮宗ではやはり当時総監を歴任した酒井日慎である。
酒井日慎は初代会長木辺孝慈に次いで二代目の会長に就任している。
爾来、前記諸問題の解決と共に司法保護事業、仏教護国団の設立、ローマ法皇使節交換反対運動、全国仏教大会、東亜仏教大会、支那仏教視祭団の派遣、釈尊降誕二五〇〇年(昭和九年=一九三四)等が行われ、第二次世界大戦中は平和の実現を期待しつつも、正義の貫徹をめざす方向を歩み、特に満州国援助の決議等が行われている。
事務所は増上寺の中にあったが終戦後は築地本願寺に移り、昭和二七年の第二回世界仏教徒会議を経て昭和二九年全日本仏教徒会議のメンバーを包合して「全日本仏教会」と名称を変更し財団法人となる。
なお、治警五・三とは、治安警察法第五条の第三項を意味し、神宮神職僧侶その他宗教教師の政事上の結社に加入することが禁止されている条項である。また、「宗教法」は、宗教そのものを監督することは、憲法侵害として、もっぱら宗教団体の性格、機能、運営等について指導、財政的保護をたてまえとし「宗教団体法」として昭和一四年四月八日公布、同一五年四月一日施行された。