妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

長遠寺(兵庫県尼崎市)

じょうおんじ #5085

長遠寺(兵庫県尼崎市)

じょうおんじ

兵庫県尼崎市、大堯山と号し、日蓮宗、旧本寺派に属する。
『大堯山縁起』によれば、当寺は観応元年(一三五〇)永存院日恩によって尼崎七ッ松に創建された。
日恩は三位日静の弟子で藤原氏の後裔であると伝えられている。 安全のため、妙経一万部読誦祈願し当寺を創した。 歴代譜によると日恩は建長三年(一二五一)に生れ、師日静の示寂のは五二歳、四九年後の観応元年長遠寺創建のには一〇一歳の高齢であり、在住八ヵ年の後、正平一二年(一三五七)六月四日一〇七歳、当寺にて示寂した。 また寺伝の一説には、日恩は六〇歳にして法華に帰依し剃髪したともいう。 また一説にはある日、長遠寺の庭前に草履を脱ぎ捨てそのまま行方不明になったとも伝えられている。 資料不明不備が多く、今これを明らかにするは出来ないが、何れにせよ高齢にて出家し、長遠寺を創し、北朝とその援護者の足利氏と何らかの縁故を持っていたと考えられ、本国寺と共に京都権勢の庇護下に発展したが推測される。 従って寺格も高く、古来より本寺派の三本三長の一つに挙げられている。 三本とは本寺、大坂満本伝寺、肥前大村本経寺、三長とは若狭小浜長源寺、三河幸田長満寺、そして長遠寺をいうのである。
また当寺六世寿量院日鎮は、天正一五年(一五八七)一一月一三日後陽成天皇から権大僧都法印の位を賜わり、翌一六年三月二五日には「宣奉祈天下泰平国家安全」の綸旨を賜わり勅願寺の道場となった。 日鎮は、永世年寺運衰退を興隆せしめ、当寺中興の祖と仰がれている。 また五世勧行院日了は本寺一二世に晋み、本寺一一世大聖院日堯は退いて当寺に隠居し、この時より当時は緋金蘭袈裟着用するを例とした。
寺格ある寺にも栄枯盛衰は巡り来り、永正から永禄年(一五〇四-七〇)にかけて兵乱に罹災し、約七〇年無住の代があった。
これより先、三世寿量院日栄の代に尼崎市中大火があり『尼崎志』には長遠寺が二回の火災に見舞われ、その一つが三世日栄の南北朝末期の頃、とあるがこれは『大黒天木像由来書』を読み誤ったもので罹災していない。 しかし、市中殆ど焼失したので、信徒中には被害があったは推測される。
七〇年無住代を経て、その後元亀三年(一五七二)三月、信長は制札を与え「摂津尼崎市場巽長遠寺法華寺建立付條々」とあるように、七ッ松から長遠寺を市庭町(市場)の東南(巽)の方へ移転建立を許可した。 町の古老の聞く処によると市場の辺りを長遠寺町と呼称し、また寺の巨松があった処から松の下とも呼んでいたという。
次いで正七年(一五七九)三月、叛逆人荒木村重を撃つべく、信長の兵は尼崎に迫り、村重は長遠寺に拠ったため、当寺はこの焼打ちされてしまった。 再建には約二〇年の歳月を費し、六世日鎮の手によって、本堂は慶長三年(一五九八)、三光堂(現在の妙見堂)は慶長九年、多宝塔は慶長一二年、庫裡は慶長一七年と順次建設し、七堂伽藍が整備された。 この再興に際しては当寺大檀越甲賀谷又左衛門正長の力による処が大であった。 境内約一万坪の中には一六を有していたがもなく、元和三年(一六一七)七月には藩主戸田氏鉄が尼崎城築城の際、移転を命ぜられ、現在の地寺町に移った。 寺域は極端に縮小され、境内地東西一二〇歩、南北一六〇歩となり、元禄の書上には僅かに寿仙院、法泉、円隆、洵正、常円の五の塔中を数えるのみであり、明治に入り円隆は神戸に、法泉は丹波に移転し、現在は寿仙院を改称した中正院一のみとなってしまった。
なお、当寺は現在「妙見さんの寺」として市民に親しまれているが、これは三〇世全院日中が、能勢より明治一〇年(一八七七)五月九日に招来して妙見堂に奉安したものである。 一期三十番神堂となったが、再度妙見堂となり現在に及んでいる。
また当寺の本堂、多宝塔は安土桃山時代の建造物の特徴を具し、よく格護されているので、昭和四九年(一九七四)四月、の重要文化財に指定された。 鐘楼、客殿庫裡等は県の文化財に指定されている。

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