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盂蘭盆会

うらぼんえ #4207

盂蘭盆会

うらぼんえ

弟子日蓮が、の教示に従って餓鬼道に堕ちた母の苦を救った由来を説いた『説盂蘭盆経』の経説に拠って、始められた行
盂蘭盆とは、梵語の「ullambana」音写して、鳥藍婆拏、意訳して「倒懸」といい、供養を受けられず、さかさ吊りの責苦に遭っている先亡の霊を救うための法会が、盂蘭盆会である。
日蓮聖人は、『盂蘭盆御書』に「盂蘭盆と申し候事は、仏の御弟子の中に目連尊者と申して、舎利弗にならびて智恵第一・神通第一と申して、須弥山に日月のならび、大王に左右の臣のごとくにをはせし人なり。 此の人の父をば吉懺師子と申し、母をば青提女と申す。 其の母の慳貪の科によて餓鬼道に堕ちて候しを、目連尊者のすくい給ふより事をこりて候」(定一七七〇-一頁)と信者に書き送り、法華経によって七世の父母を供養することの功徳の大きさを説かれている。
この行は、中に於て、梁の武帝が大同四年(五三八)に、同泰寺で盂蘭盆の斎を設けたことに始まり、唐代初めには、盛んに行なわれるようになった。
わがでは、『日本書紀』第二の推古天皇十四年(六〇六)に「この年より寺毎に、四月八日・七月十五日に斎を設けた」とあるのが始まりで、続いて、斎明天皇三年(六五七)七月の条に「須弥山の像を飛鳥寺の西に作り、盂蘭盆会を設けた」また、斎明天皇五年七月の条に「群臣に詔を下して、京内の諸寺において盂蘭盆経を講じさせ、七世の父母追孝の供養を行わしめた」等と記している。 更に『続日本紀』第一一、聖武皇の平五年(七三三)七月の条に「盂蘭盆会供物は、大膳職が調えること」と記しているように、宮中の年中行として行なわれるようになった。 以後、平安期、鎌倉期、室町期、江戸期と時代を経ても、宮中及び将軍家における仏教行として継承されていた。
なお、鎌倉末期頃からは、葬儀を執行する寺院がふえはじめたことにより、先祖供養の為、あるいは、死者追善の為に読経し、供物を献ずるということが通念となり、在来の民習俗としての「魂まつり」と融合して一般民衆のにも定着していった。 ただ、各毎に、精霊棚を設け菩提寺の僧に棚経をあげてもらって供養するという形ができ上ったのは、江戸時代の寺請制ができて(一六七〇年頃)からのことである。
としての盂蘭盆は、おおむね七月(月おくれで、八月に行う地方や、旧暦で行うところなどがあって一律ではない)に行なわれ、期日は、一三日から、一六日で、一三日を「迎え盆」、一六日を「送り盆」という(関東では、一五日に送り盆をするところも多い)。
盂蘭盆を迎えるにあたっては、仏壇を清掃して、その前に精霊棚をつくり曼荼羅を掲げ、真菰の莚を敷いて位牌を安置し、果物や菓子、茶湯、霊膳その他種々の供物を供える。 胡瓜の馬、茄子の牛を置くのは、迎えの為の馬、送りの為の牛をあらわすもの。 茄子を賽の目に刻んで蓮の葉の器に盛るのは、「水の子」(水の実とも)といって餓鬼に対する施食の意、水を入れた器に、みそはぎの枝を添えておくのは、灑水供養の為である。 また、精霊棚の隅やそれより一段ひくく棚を設けて種々の飲食を供えるのを「無縁棚」というが、これは「あまねく一切に及ぼす」という法華経の精神にそった供養の仕方である。 一三日の夕刻、軒先に盆提灯を吊し自の門口で、苧穀(おがら)を焚くのを「迎え火」(門ロで焚くので、門火とも)、一六日(一五日のところもある)に焚くのを「送り火」という。
また、「盂蘭盆施餓鬼」といって、お盆月の七月八月には、各寺院で施餓鬼法会を営む。
『広説仏教語大辞典』「盂蘭盆會」「盂蘭盆」の項、『日蓮辞典』『新版仏教学辞典』「盂蘭盆」の項、『岩波仏教辞典』「盂蘭盆会」の項、松野純孝編『仏教行とその思想』》

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