池上(地名・武蔵国千束)
池上(地名・武蔵国千束)
いけがみ
武蔵国荏原郡千束郷、現在の東京都大田区池上。
弘安四年(一二八一)、持病が再発された日蓮聖人は、身延で弟子近侍の看護を受けて療養に専念しておられたが、翌五年の九月八日、波木井実長の篤志によって、公達の守護と栗鹿毛の駒で身延を出立した。
まず故郷を訪れ、更に常陸の湯(水戸市加倉井町)に入湯して療養しようと決意され、同月一八日、武蔵国池上に着き、池上の邑主である池上宗仲の館に入られたが、翌一九日付で波木井実長に宛てた『波木井殿御報』(定一九二四頁)に判形を加えることが出来ぬほどに病状は重態であった。
聖人はすでに入寂が近いことを悟ってここ池上を入寂の処と定め、同月二五日、聖人は病を案じて諸方から参集して来た門下に最後の談義として『立正安国論』を講じ、翌月一〇月八日、本弟子六人を定めて滅後の法灯とした。
また経一丸(のちの日像)を枕頭に呼んで京都弘通を委嘱された。
かくて一〇月一三日、入滅に臨み聖人は枕頭に大曼荼羅をかけさせ、その前に随身仏を安置し、門下の御経読誦のうちに辰の刻(午前八時頃)、寂然として六一歳をもって入寂された。
この池上は身延より艮(うしとら)の方角に当り、釈尊が霊鷲山より艮に当たる東天竺倶尸那城跋提河(くしなじようばつだいが)の純陀の家で入滅されたことに擬して聖人は述べられている(定一九三一頁)。
さて翌一四日戊の刻(午後八時頃)日昭・日朗によって御入棺、子の刻(夜一二時頃)に葬送の式を厳修、聖人の遺骸は荼毘に付された。
池上大坊(本行寺)の東北方の高所に宝塔が建てられている所がその記念の地である。
かくて御遺骨の配分も終わり、御遺骨は一〇月一九日(聖人の初七日忌)に池上を発し、身延に至って納骨の儀が行われた。
池上宗仲が聖人御入滅の聖地池上に本門寺を建立したのは、入滅直後の弘安六-七年(一二八三-八四)で
あるとされる。
同寺開基は池上宗仲、開山は日朗である。
《『遺文辞典』歴史篇「池上」の項》