九州総導師職
九州総導師職
きゅうしゅうそうどうししょく
中山法華経寺から任命派遣された肥前光勝寺の住職のこと。
中山法華経寺は千葉氏の外護によって寺基を固めるが、千葉氏は鎌倉時代の初めから九州の薩摩や肥前に所領を得ていた。
蒙古襲来(元寇)を機として、九州に所領をもつ武士たちは異国警固のため九州に下向を命ぜられ、千葉頼胤も肥前小城に赴いた。
頼胤は富木常忍の主家である。
頼胤は蒙古合戦(文永の役)で傷をうけ小城で死去したと伝えられる。
頼胤の子宗胤は弘安・正応年間に大隈守護としての事跡を残し、その子胤貞は小城を中心にして領主制を拡充して、下総の領地千田庄、八幡庄の経営も積極的に行った。
法華経寺第二世日高が没する頃、正和三年(一三一四)胤貞は同寺の俗別当であった。
日高は遷化する前年の正和二年、鎮西弘法のために弟子の日厳を肥前に派遣している。
中山門流の肥前への進出の端緒である。
元徳三年(一三一三)九月、胤貞は相伝の私領を師匠の日祐に譲るが、そのなかに肥前国小城郡(佐賀県小城市)光勝寺職があり、これ以前に同寺が建立されていたことが知られる。
延文四年(一三五九)七月、法宣院の智観房日貞が日祐の命をうけ、法門弘通のために肥前に赴く。
「総導師」的な役目をもっての赴任であろう。
室町時代になると「所々導師職末寺等」「千田庄導師職」「大野郷惣導師職」など「導師職」という名称が現われる。
それぞれの地域における宗教上の最高指導者をさし、中山法華経寺貫主の任命により、その身一代に限られた。
肥前では、松尾山光勝寺を中心に小城一帯に末寺が形成され、光勝寺の住職は総導師として、この地域の僧侶に対し、絶対的な指導権をもった。
いわゆる九州総導師職であり、西海総導師職である。
同職についたもののうち久遠成院日親はもっとも著名である。
『日親上人徳行記』は、応永三二年(一四二五)一九歳で「松尾山総導師」となり、正長元年(一四二八)二二歳で同職に重補されたと記しているが、日親自らは「永享五年(一四三三)癸丑日親廿七歳にして九州の導師たりし時」(『埴谷抄』)といっている。