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本迹六喩

ほんじゃくろくゆ #3483

本迹六喩

ほんじゃくろくゆ

法華経の開顕の経旨を蓮華にことよせて説いた譬喩。
天台大師智顗が『法華玄義王、同巻七に説いており「蓮華三喩」ともいう。
同書王によれば、智顗は「妙法は解し難く、喩を仮るに彰(あらわ)れ易し」といって、妙法は不可思議にして解し難いから、この義を彰すために草花の蓮華をもって喩えたのである。
ち法華経迹門における開権顕実、本門における開迹顕本を蓮の実(実教と本門を喩える)と蓮の華(権教と迹門を喩える)とに喩えて、権実・本迹の三種の関係を説いたものである。
迹門の三喩とは、
(1)に方便品の「第一義寂滅を知り、方便力を以ての故に種々の道を示すと雖も、其れ実に仏乗の為なり」の文により、蓮のために華があるのは、法華経を説くために爾前四十余年の権教を施設したのに譬える(為実施権)。
(2)に法師品「方便の門を開いて真実の相を示す」の文により、華が開いて蓮の実が現れるのは、法華経が説かれて権教を開会して真実の教を顕したのに譬える(開権顕実)。
(3)に方便品の「正直に方便を捨てて但無上道を説く」の文により、華が落ちて蓮の実が成熟するのは、法華実教が現れれば真実の他に方便の必要はなくなって廃されるのに譬える(廃権立実)。
この喩えは草花をあってしたから蕾と開花と落花の次第順があるが、法体の上からは権を開会するとき権即実となるから(権実同体)、開顕の用の上からは開と廃とは同であるという(開廃倶)。
次に本門の三喩とは、
(1)に寿量品の「我れ実に成仏してより已来、久遠なること斯の如し(略)」の文により、蓮のために華があるのは、本仏から迹仏が応現し、迹仏に依ることを譬える(従本垂迹)、
(2)に寿量品の「一切世間、皆今始めて道を得たりと謂うも、我成仏してより来、無量無辺那由他劫なり」の文により、華が開いて蓮の実が現れるのは、迹仏を開会して久遠の本仏を顕したことに譬える(開迹顕本)。
(3)に「諸如来の法は皆是の如し。衆生を度せんが為皆実にして虚ならず」の文により、華が落ちて蓮の実が成熟するのは、久遠の本仏が顕れれば迹の必要はなくなり廃されることに譬える(廃迹立本)。
このように迹門における施開廃と本門における垂開廃を、蓮華の喩えをもって説いた本迹六喩は、智顗が方便なるものと真実なるものと区別するために用いたものである。
略示すれば次の通り。

       (迹門)  (本門
 為蓮故華――為実施権――従本垂迹
 華開蓮現――開権顕実――開迹顕本
 華落蓮成――廃権立実――廃迹立本
《『遺文辞典』教学篇「本迹の六譬(ほんじゃくのろっぴ)」の項》

図版

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