従本垂迹
従本垂迹
じゅうほんすいじゃく
「本より迹を垂る」と読む。
『法華玄義』において蓮華の三喩が説かれる段に、本門に配釈され、為蓮故華をこの従本垂迹に当てる。
即ち迹門の始成正覚の仏は、本門の仏を開顕するために誕生されたことを喩え、久遠の本地から足迹を垂れ給うことをいうのである。
つまり、これは本門の釈尊が論ぜられたものである。
近世日蓮宗教学者の優陀那日輝(一八〇〇-五九)は『庚戌雑答』に「無作三身に安住するは本果門の一辺なり、分別功徳修行増進し、娑婆に即して報土を成し、無量の菩薩を化して一世に道場に坐し、法輪を転ずるは従本垂迹、従本起用の法門、本迹合成、因果不二の最上乗なり」と述べているが、これは本門を無作理本覚の世界と解釈し、本仏を無作三身と見なし、衆生がその無作三身の自覚にとどまらず、法輪を転じ、無作の仏行をなさねばならないと説くのである。
その意味での従本垂迹、従本起用の法門とは、本門たる無作本覚からの能動的な働き、仏作仏行ということで、我等衆生の実践を指すものであろう。
《『遺文辞典』教学篇「従本垂迹」の項、『天台学辞典』「従本垂迹」の項》