本尊問答抄(三〇七)
本尊問答抄(三〇七)
ほんぞんもんどうしょう
一篇。
日蓮聖人撰。
弘安元年(一二七八)九月撰述。
真蹟は現存しないが、日興写本の断片が北山本門寺に、日源写本が岩本実相寺に現存する。
対告は安房清澄の浄顕房。
本抄は浄顕房が本尊の授与を請い、本尊に関する疑問を呈したのに対し、聖人は本尊を図し、本抄を送って十数番の問答によって本尊の本義を教示し、その本尊は仏滅後未曽有のものであることを述べられている。
本抄には「仏は所生・法華経は能生」であるから、能生たる法華経の法をもって本尊とすると規定しているため、古来より法本尊の論拠とされ、『開目抄』『本尊抄』等に説く本仏を本尊とする人本尊の説示と異なることから論議をよんできた。
更にこの点から本抄の成立を疑うむきもあるが、前述の如く直弟子の日興・日源の写本が存することから疑うべきでない。
本抄の対告である浄顕房は義浄房と共に聖人の法兄であって、道善門下にあって、師に代って聖人の幼時に種々教導してくれたのであり、聖人立教開宗の当日、地頭東条景信の怒りをかって、清澄山を下られた時、聖人を庇護しつつ無事に危機を免れしめたのも、この二人であった(『報恩抄』定一二四〇頁)。
その後も聖人との間には交誼が続いていたようであり、かの領家と地頭景信との係争についても、二人から情報が送られ、聖人も指示を与えたようである。
聖人の身延入山後も交渉は繁く行われ、聖人から書物の借覧などが申し送られている(清澄寺大衆中)。
建治二年(一二七六)道善房遷化の頃には、既に浄顕が師跡を継いで山主となっており、二人の聖人に対する帰依の念は一層深められていたが、周囲の情勢から改宗転衣するに至らなかっただけのようである。
本抄の内容は東密・台密の法義、本尊に対する破斥を行ないつつ、本尊義が顕示されている。
冒頭にまず末代悪世の凡夫が本尊とすべきものは法華経の題目であると標示され、経釈を引用してこれを証し、諸宗の本尊を一々に破斥し、仏は所生で法華経は能生であるから、能生の法を本尊とすると断ずる。
次いで特に真言宗の本尊について厳しく破斥され、空海・円仁・円珍の三師の所説が邪義であることを説き、中国・日本における真言の弘通を釈して、最澄以後の真言の隆盛は日本国中が真言化し法華経の大怨敵となったと指摘する。
更に聖人の法華経弘通、謗法呵責の行動、特に真言破斥について語られ、念仏・禅の破斥は真言破の序分に過ぎず、真言の謗法が最も深いことを示され、聖人が『立正安国論』に予言したことが現証となって眼前に展開しつつあるとする。
そして真言亡国の現証として、承久の乱における後鳥羽上皇の敗北と平家の滅亡を挙げ、蒙古の来襲を真言の悪法によって調伏しようとするならば第三度目の亡国の現証となると警告されている。
最後に妙法五字の本尊の仏滅後未曽有なることを述べ、これこそが末法弘通の本尊であると教示し、聖人の法華経弘通、呵責謗法、本尊顕示の功徳を父母・師匠・一切衆生に回向し奉らんと結ばれている。
《『日源上人とゆかりの寺院―日源上人第七百遠忌記念―』、『遺文辞典』歴史篇「本尊問答抄」の項》