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本国寺・本圀寺(旧鎌倉・現京都)

ほんこくじ #3359

本国寺・本圀寺(旧鎌倉・現京都)

ほんこくじ

寺は、京都市山科区に所在する本圀寺の前身に当る。
本圀寺は大本山としての格式をもち日蓮宗由緒寺院の一つ。
大光山と号す。
寺は同じく京都の妙顕寺と共に、「京都日蓮宗二十一箇本山」の代表格として威勢を振った。
当寺はもと鎌倉にあって日蓮聖人松葉谷法難ゆかりの寺と称せられていたが、後に京都に移された。
寺地は六条堀河にあることから、六条本寺として広く知られていた。
寺が「本圀寺」と改称したのは江戸時代の初期に水戸光圀が当寺を訪れたことを契とするものと伝えられる。
ところで本寺の霊宝は、立像の釈迦・真筆の『立正安国論』・佐渡からの赦免状である。
日蓮聖人の一代記にかかわるこれらのものは「三箇霊宝」と称され、特に立像の釈迦像は人々から信仰されていた。
日蓮宗信者として有名な近衛政家も、本国寺に参詣して釈迦像を拝したと日記に記している。
寺は下京に位置することから町の人々の参詣は絶えず、特に一〇月一三日の御影講における賑わいは他を圧していた。
日蓮聖人の二〇〇遠忌に当る文明一三年(一四八一)の法会には詣者群をなすという有様であった。
このような関係から日蓮宗における一方の旗頭となり、法華一揆が盛んな頃には拠点の一つとして武備を備え、堀を掘るなど要塞を固めていたのである。
ところが文五年(一五三六)の文法華の乱に当っては、最後まで戦ったが、遂に敗れ堺に避難した。
やがて他の本山と同様に帰洛が許され、京都の旧地に伽藍を再興する。
文一五年のことであった。
この後、宝永元年(一七〇四)には本堂の再建供養が行われるなど旧観に復したが、明八年(一七八八)の京都大火で再び烏有に帰した。
これを復興するために三箇の霊宝を江戸に出開帳するなど、相当の苦心を重ねた。
このような歴史を重ねた本圀寺が寺院運営の失敗によって六条の寺地を離れ、山科の地に移ったのは、まだ最近のことである。
《『日蓮辞典』「本圀寺」の項、『史大辞典』一二巻「本圀寺(京都)」の項》

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