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日禅(勧持院)

にちぜん #2867

日禅(勧持院)

にちぜん

(-一六七七)
勧持院と号す。
碑文谷法華寺の一四世。
並びに養安寺檀林の二世、松崎・野呂各檀林能化を歴任した。
著書に『悲田記』一巻がある。
寛文五年(一六六五)七月末、幕府は不受派三本寺を通じて、国主の賜うところの寺領は、ことごとく供養であるという手形の提出を迫った。
に不受派諸師はこの申渡しを拒否し、流罪の宣告を受けたが、日禅を始め小湊誕生寺日明・谷中感応寺日純は不受不施義を守りながら、なおかつ寺領をも手に入れたいと手形の文句を改変し、慈悲による供養、悲田供養として拝受する旨の手形を提出した。
その後、この悲田手形を書いた日禅・日明らは信者からも世間一般からも信用を失って参詣者も絶え、これに反して流に処せられた諸師に世の称賛が集まった。
例えば当の落首に日禅を指弾したものとして「餓鬼道ノ朱ヲトルヤ日善ガ受不施ニナレバノドハ碑文谷。不受不施ヲ曲物ニスルコトモ皆檜物屋ノ細工ナリケリ」というのがある。
しかるに当の大寺の住持として日禅や日明・日純らの示した態は「此もし上意に違背せば四百年来の宗法一朝にほろびて日本国中不受断絶」というにあって、あるいはやむを得ないことであったといえるかも知れない。
ところで碑文谷法華寺は中老日源が弘安年(一二七八-八八)天台宗法服寺を改宗したもので。
一一世修禅院日進が身池対論により信州上田に流されたのを始めとして、歴代の住持はよく不受不施派の本寺としての伝統を守ってきた。
従って日禅もまた、その伝統を捨てたくはなかったのであろうか。
窮余の策として悲田手形を書いたものの、つまりは佐渡に流されることになった。
一説によれば寛文七年流と伝えるが、日禅の碑には「自甲辰(寛文四年)秋至壬子(寛文一二年)冬、在住九年」とあり、寛文一二年まで当山に在住していたことが知られ、上記の説は誤伝ということになる。
延宝五年七月一一日入寂したが、世寿は詳らかではない。

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