日永(因幡房)
日永(因幡房)
にちえい
(生没年未詳)
因幡房と称す。日蓮聖人在世当時の弟子。
その所伝の詳細は不明である。
日永は初め身延西谷の御草庵から東北方約五キロ程の下山郷を領していた下山兵庫五郎光基の阿弥陀堂を守っていた念仏の行者であった。
下山氏は甲斐源氏の流れをくむ加賀美遠光の長男で、秋山(山梨県甲西町)に住した秋山光朝の子光重が、建仁年間(一二〇一-〇四)に下山に来住して下山姓を称したのが最初とされ、『身延町誌』は『南巨摩郡郷土史概要』によって、その系譜を「下山小太郎光重―兵庫介光基―四郎(因幡房日永上人)、乾元元年三月一日率」と記している。
下山氏は日永でその家跡を断ち、以後穴山氏の支配に移っていくが、その過程は明らかでない。
日永について『録内啓蒙』は、『日統抄』に下山殿に奉公した人の子であるという説をあげて、『下山御消息』に「親父の代官といひ」(定一三一二頁)の文を証とし、『日統抄』の説をとっている。
「下山殿に仕えた親父の代官としても」と解釈した結果であろうが、これは「親父であるあなたの代官として」と理解すべきであろう。
日興の『本尊分与帳』によれば「甲斐国下山の因幡房は日興の弟子也」とあるから、日永はまず日興の教化をうけ、しかるのち日蓮聖人に帰依し弟子となったものであろう。
かくて日永は念仏を止め、法華経自我偈を読誦するようになった。
怒った光基はこれを詰問したが、日蓮聖人は日永に代って一書を認め、浄土教を批判し、法華正法を強調して光基の入信を勧めた。
その一書を『下山御消息』という。
これを機縁として、光基もやがて聖人に帰依し、法重房日芳の法号をうけ、本国寺を創したと伝えている。
本国寺の縁起によれば光基の阿弥陀堂は平泉寺といい、その第四子兵衛四郎は出家して比叡山に学び因幡房と称していた。
その比叡山修学時代の法友最蓮房が日蓮聖人を尋ねて身延山に登山してきた折、因幡房も同道して聖人の教化に浴し、阿弥陀経の読誦を止め、やがて『下山御消息』によって光基も聖人の弟子となり、平泉寺を改めて最蓮房を開山、光基が開基、因幡房日永を二世とする長栄山本国寺をなしたという。
《『昭和新修』別巻「因幡房日永」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人の門弟」の項、『日興門流上代事典』「日永(因幡房)」の項》