日新(慈雲院)
日新(慈雲院)
にっしん
(一五三五-九二)
字は純慧、慈雲院と号す。
甲斐国巨摩郡(山梨県南アルプス市)に生まれた。
幼くして身延一三世日伝に師事し、日伝の死後同一四世日鏡について得度した。
諸山に遊学して具に辛酸を嘗め、京都妙華寺に住し、次いで藻原妙光寺に転じた。
天正六年(一五七八)身延一六世日整の嘱をうけ身延に入山して一七世の法灯を継ぎ、同九年一〇月には日蓮聖人三〇〇遠忌を修した。
翌一〇年甲州を領して身延に詣でた徳川家康と道話し日を重ねた。
その時に家康は荘田一〇〇〇石を身延に寄せることを申し出たが、日新は身延山は日蓮聖人棲神の霊地なのでさいわいに飢えこごえることはないので、将来に弘通所の地を寄せてくれるよう請うてその申し出を断った。
日新は天正一三年一〇月、一面が二間半の初めての八角の宗祖御廟堂、二間半・三間の同拝殿および廓下を建立した。
天正一六年一一月、家康は本宗の一門流に与えた最初の法度である久遠寺条目を下したが、その中で身延山の中世末以来有してきた会式の期間中に登詣する参詣人の関銭免除の特権を確認された。
天正一八年江戸城に入った家康は翌一九年、先年の約束をはたして日本橋馬喰町に瑞輪寺をたて(のち神田に移り、さらに谷中に転じた)、時に日新の院号をとって慈雲山と称した。
また甲斐休息立正寺は駿河岡宮光長寺に属する日隆門流の有力寺院であったが、武田勝頼滅亡の時に兵火にあい伽藍が悉く焼亡してしまった。
そこで立正寺は身延に従って再興を遂げようと、天正一九年正月日新に改派のことを請うた。
日新はこれを聴許して本尊を贈り、諸役免許状をさずけ、それまでの特権を認めここに立正寺は身延末となった。
日新は天正二〇年八月一一日、身延在位一五年、五八歳をもって寂した。
その創建に信州本立寺・広福寺・妙福寺、雲州慈雲寺、身延西谷南向坊があり、その著に『御製抄』(身延文庫蔵)がある。
門下には、妙雲日賢、法雲日道、中正日友、禅那日忠、順蔵日巡、慈眼日慧、円覚日長、慧性日受等がある。
《宮崎英修『日蓮宗徒群像』、『日本仏教人名辞典』「日新」の項》